JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
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芦安発5時15分始発バス 9月末となれば朝が遅い
前回の杖立峠から広河原への杣道探索は確証を得られず、枯葉のなかに靴の踵を見たのみだった。古道は時の彼方に消えたのだろうか。五葉尾根からの杣道は野呂川へ流下する深沢の源頭を横切っていったとされている、であれば深沢を登っていけばその痕跡にたどり着くかもしれない、あわよくば二棟あったという小屋跡を発見できるかも知れない。との淡い希望をもって芦安からの始発バスに乗り、深沢橋で降りた。
(夜叉神の石碑 古来の杖立峠は夜叉神を経由しない説がある)
まだゴアテックスなど透湿素材もなかった時代。。
網シャツなんて肌着もあったしウールのシャツがいいと言われた。ウインドヤッケにニッカーボッカが標準スタイル。フランス映画「天と地の間に」を渋谷で何度も見た。脛の長い彼等の脚にニッカーボッカとウッドの長いピッケルがかっこよかった。
ニッピンのNPソールを履き、パッキングの左右バランスが難しいキスリングの中身は4キロもあるテントやマナスルの石油コンロ。山小屋は自炊がメインで食堂なんてあったっけ(笑)
横長のキスリングでは黒部の下の廊下なんかぞっとする危険があり、その後急速に縦長のヨーロッパスタイルやフレームザックに移行していった。ケータイやスマホのアプリなんてなかったからコンパスと5万図や2.5万図が必須だった。沢登りから学ぶ風潮が今よりあって、結果的に尾根歩きより一歩深く山を知った気がする。
これは黒戸尾根から早川尾根を縦走した時のシーン。
今の人達はピンチへの対応力が課題ではないか。夥しい道迷いレスキューがそれを物語っている。スマホの電池切れでアウトでは困るし、山は捻挫ひとつでヘリを要請することになることを認識するべきだろう。
写真はその頃の甲斐駒ケ岳です。当時は黒戸尾根がメインルートでした。
山岳写真を志していた私は6x7の中判カメラとレンズ数本、三脚を加えて10キロ近い器材が登山装備に加わります、テントだと30キロ超えも度々。特に冬となればへばりました。
( 5時15分 雨の芦安始発 )
始発の慣れぬ車掌で夜叉神から二人乗車された。
1人は珍しく鷲住山で降りるという
夏至から40日。まだ明けやらぬ早暁4時35分
甲府発広河原行きのバス
梅雨明けの好天からの入山者に山は賑わった
やっと取れた休み、その反動から静かなルートを歩きたくなった
農鳥への尾根にある滝の沢頭山の威容と、右は鷲の住山の断崖
0515芦安発のバスを鷲住山展望台バス停で降りる