2026-02-1108:26

美のルーツ

夕日が美しいのはなぜか。 キレイだから美しいんだよ、それで終わりだ。ったくめんどくせえ奴だ。そういわれることの多い、めんどくせえ奴ですが、それが娯楽なんだからしょうがない。

一枚の絵を気に入ったとする。「俺は何故この絵が好きなんだろう」と思う。好きならそれでいいじゃないか、それ以上なにがある。。ごもっともだがそれではつまらない。好きになったルーツに迫りたい、生い立ちまで遡り、なぜこの絵を好むような人間になったのか。。

こうなると絵を通じて自分に迫りたい、もっと言えば絵よりも自分の内面に興味がある。自分にしか興味のないエゴイストでありナルシスト。。卑下しすぎのようで結構あたってるかも(笑) 論旨を戻して絵には作者がいて意図がある。それは美をめざしての芸術であることだろう。その意図に呼応して美しいと感ずるのは至極真っ当なことで、意図は報いられたといえる。 その一方で夕日には意図というモノがない。それどころか主体そのものがなく、従って目的もない。人間はものごとを理解しようとするとき、その目的と意図はなにか、とか、主体となるものの歴史的背景とか現在の置かれている立場などから評価しようとする。 しかし夕日にはそういう一切のものがない、夕日のみならず自然界すべてに目的というものがない。だから恵なんていうのもおかしい、たまたま都合がいいだけの話で、それが恵なら災害は刑罰ということになってしまう。 恵みも怒りも心もない巨大な虚無。あるがまま、成り行きのみ、それを指して自然という。私たちはそんな巨大な虚無の上に立ち、健気にも生きることの目的や意味を求めている。そういう人間的な目線からすると虚無というものに耐えられず何らかの意味を見いだそうとする。 

美を目的としていない夕日を美しいと思うのは何故だろう。そもそも美とはなんだろうか。美しいと思ったとき、ある種の陶酔と心地よさがある。それはきっと心に潤いをもたらし、ひいては身体的な免疫力の向上などに繋がるのではないか。たぶん美しいという心持ちは生きる上の潤滑材であり都合がいいのだと思う。進化とは都合のいい方向に歩むはずである。 そして自然環境など、抵抗できないもの、受け入れざるを得ないものに美を見出したのは究極の順応ではないだろうか。とまあ、私はそんな風に美というもののルーツを考えていたのだが。。。                                                          

   ( 短歌教室 )

最近になってたまたま、ラジオの実に簡単な言葉から、私の考えていた美のルーツが、そんなに奥深い理由だけではないと感じた。それは先人の美意識の上に今の価値基準があって、つまり、あなたの名作も、先人の土台の上に成り立ったというものだ。たしかにそれはあって、誰しもが気に入った誰かの影響下にあるのだろう。そして歌人の1人が「桜ってホントにキレイなんだろうか。昔からそう言われるからキレイに思うのではないだろうか。。」と、決定的な言葉を吐いた。 歌人をしてこの言葉。 それは友人の「キレイだからキレイなんだ、それだけだ」と同じである。そもそも桜に「キレイ」という目的はない。それを誰かが「キレイ」と決め、周囲がそうか桜はキレイなんだ。。と広まっていったのだろう。もちろん最初に美しいと思った人は容認であり美化のプロセスだったろう。影響力や強い人の感性が集団生活や言語を持つ人間に布教していったのではないだろうか。社会生活を営む人間ほど他者に依存し、影響し合う生物はいないだろう。価値観の統一は集団維持の大きな要素であり、それが他の生物に優位にたち、地球の覇者になったのだ。人間が自然界の厳しさや他の動物に立ち向かうには団結して集団行動をとる生き方を迫られ、それが社会性や暗黙のうちの協調性のため、他者への共感や追随という素地を生んだのではないだろうか。 しかし偏屈を自認する私は、極力他者の影響を受けたくない態度をとってきた。お祭りとかコンサートとか団体競技の白熱した場には極力近寄らないようにしてきた。趣味の会わない音楽に集団陶酔するようなシーンをみるとゾッとする(笑)有名な景勝地で絵葉書と同じ写真をとって満足とか、、そんな人が、なぜ私は惹かれるのか。。なんて問いはしないだろう。 私は有名人のサインとかブランド物。。W 等から距離をおき、趣味の山でさえも百名山とか賑わうルートを遠ざけ、孤独を気どっていた。

これから本格的な老境を迎えるにあたり、そのツケが来るのかこないのか。。わからない(笑)

カテゴリー: all | 執筆者: Toshio Kazama