2012年6月6日、住んでいた神奈川県伊勢原の家のベランダから撮影した。
朝から厚い雲に覆われていたが10時過ぎから雲間に見えてきた記憶がある。それを撮影できた類まれな幸運に感謝するしかない。
次に金星が太陽面を通過するのは2117年12月10日から11日のことになる。もっともこの投稿を見てくれる人はすでに誰も存在しないが(笑)
100年後のことなど人間の決め事なら不確実だろうが、おそらく100年後のこの日、同じ光景が展開されるだろう。管理者がだれもいない、誰が決めたことでもない巨大な世界の、この厳密さはなんだろう。ひとたび地球の中となればカオスに満ちて、数日後の天気予報すら当たらない。自然とは言い換えれば放置と無秩序のなれの果てなんだと思う。
しかしその無為にこそ人知の及ばない 最大の秩序があるのはなぜだろうか。。それを神の所業というのは、思考の放棄という逃げでしかない。
進化というのも実は放置であり、意志でも目的でもない、無為なればこそ結果として合理性に落ち着くということだ。
放置こそ最良の結果を生む。。問題発言のようだが、それは「人間にとって最良」ではないかもしれない。
合理性という力学の原点は、「安定を得る地点に最短距離で移動」しようとする万物の運動であり、むろん意思ではない。
思うのは、それを見る私たち人間のあまりのスパンの短さである。宇宙は光速に近い速度で膨張しているというが、アンドロメダ星雲が、その直径分移動するのに25万年ほどかかる。直径ぶん横移動するのに25万年、、それを眺めている私たちには、律儀に生涯眺めても静止にしか見えない。。そんな宇宙のダイナミズムも瞬きするような短時間で見るしかないから静止であり、厳密な秩序として見えてくる。 そこには本来的に時間という存在はなく、それは生物の有限な命を通しての、ものの見え方ではないだろうか。それは個々の生命のスパンによって見え方が違うことだろう。数週間の命の蚊の時間感覚は人間のそれとは違い、長い一生として感じているのではないか。蚊を叩こうとする人間の動きはまるでスローモーションで、よほど間抜けな蚊でない限り逃げられる。初夏の宵を明滅する蛍にとって、夜明けから日没を経て夜の闇にいたる一日の変化は一年の時の流れではないだろうか。
事実という尺度があるとしても、それを認識するものがいなければ無に等しい。虚無とは主体や基準のないことだろうか。
そして現実的な目線でこの金星を見る。。太陽に張り付いているようだが、地球から太陽までの距離の75%ほどもあり、公転周期は80%に近い。質量も似通って兄弟とか双子と言われる。しかしその環境は苛烈を極め二酸化炭素の大気は480℃で風速100mの熱風。。かって海が存在したと推測されるが極端な温室効果で生命を育む以前に蒸発し今に至る。この様相を温暖化の地球の未来像とする向きもある。
そして私もこの地球の物質から構成され、広大な宇宙のなかでほんの一瞬の生命とし存在し、その目でこの世界を見られることの幸運を思わずにはいられない。
2117年12月10日の太陽を金星がまた横切るとき、この世はどんな変貌を遂げているのだろうか。

カテゴリー: all | 執筆者: Toshio Kazama