甲府盆地はぐるりと山に囲まれ、東側は大菩薩連嶺と御坂山地に遮られています。
私は幼少のころからこの山々を見て育ちました。
地平線というもののない山梨では山なみが視界の果てです、その山の向こうには何があるのか?、という漠然とした想いはいつもありました。
私が小学2-3年生の頃だったでしょうか、千葉に住んでいる叔父さんが山梨に来るということになりました。叔父さんは父の弟で、父は「政雄」と言っていましたが、私達兄弟にとっては「政おじさん」でした。父は弟の政おじさんの帰省を大変楽しみにしていたようで、それは私達にも待ち遠しいことでした。
家のずっと上に、山地と言っていた見晴らしのよい畑がありました。
そこで遠くの山なみを見ながら、私は野良仕事をしている父に聞きました。
「政おじさんはどっちの方から来るの?」という、いかにも子供じみた質問でした。
父は仕事の手を止め、南東の山なみを指さし、言いました。
「あの山の低くなった所があるだろう、政おじさんはあそこから来るんだよ」
父は克明に説明してくれました、その様子から父の嬉しさが私にも伝わってきました。
御坂の山波は東に向かい、きれいな双耳峯の稜線をゆるやかに下げて大菩薩の連稜と重なります。「山の低くなったところ」というのは笹子峠のことだったのですが、当時の私はそのことを知りませんでしたから、政おじさんがその山を越えて来るんだと想像しました。
その時から、その山を見ると政おじさんを連想しましたから、私には「政おじさんの山」になりました。
政おじさんの面影がその時点で私にあったのかどうか覚えていませんが、家に軍服姿の写真がありましたからそのイメージで想像していたのかもしれません。
山梨の家に来た政おじさんは都会的な物静かな人でした。
政おじさんは私にプラモデルを買ってきてくれました。当時私は飛行機の絵を描いたりプラモデルを作るのが好きでした。おそらく政おじさんが父に、そのことを聞いたのでしょう。プラモデルはレベルという舶来メーカーのもので、山梨の小原の街では売っていないものでした。当時を思えば千葉でも簡単には入手できなかっただろうと思います。
それはコンベア社の旅客機でしたが、欲を言えばこれが軍用機ならなあと思いました。
私は丁寧に作りました、当時の私にはまだ塗装技術がなく無塗装でしたがガッチリした仕上がりでした。私は後日、雑誌で調べてコンベア旅客機の来歴を書いたお礼の手紙を出しました。分厚い素材の外箱は勿体なくて、その後何年も私の小物入れとして使いました。
50年以上前のある日、政おじさんは、あのプラモデルをどこかの模型屋に買いに行ったのです。それは政おじさんと共に笹子峠を越え、小学生の私の手元に届いたのです。
その上質な黄色い箱と絵を今でもありありと覚えています。
父と政おじさん、姉の岩手のおばさんの三人はとても仲の良い兄弟でした。
3人が会った最後の機会は昭和48年の10月、私の結婚式でした。
抜けるような晴天の茅ヶ崎海岸の式場で三人は楽しそうに談笑していました。
ところがその翌年の春、政おじさんは還暦を待たずして急死してしまったのです。
父がその訃報を知ったのは、皮肉にも山梨から佐倉の政おじさんの家に行く道中のことでした。父は俳句を好み、近年政おじさんも始めたこともあり、会うのを何より楽しみにしていたのでした。
兄と弟の楽しい再会は、一転して悲痛な対面になってしまったのです。
父はその夜、ひと晩じゅう政おじさんの枕辺から離れようとせず泣き通しました。
美男子だった政おじさんの最期の顔は火葬するのが惜しいほど美しいものでした。
父は弟の額を撫でながら、「政雄、成仏するんだぞ」と何度も言いました。
葬儀が終り、家で仮眠しているときでした、「としお君、、、」と呼ばれた気がして目覚めました、それはたしかに政おじさんの声でした、でも気のせいだったのです、私の心と体の状態が政おじさんの声を合成したのでしょう、でもそのときの声はいまも耳の奥に残っています。
それからは岩手のおばちゃんに会うたびに言われました「歳男のおかげで政雄に会うことが出来てよかった」。
あの茅ヶ崎の海辺の秋の日は、八幡村市川で生まれた姉と兄弟三人の、かけがえのない日だったのでした。
「政おじさんの山」に登ったのはそれから20年以上の歳月を経てからでした。
もともと登山の対象にはならないような山だったので訪れるのが遅くなったのです。
正式な山名は「お坊山」という間の抜けたもので「政おじさんの山」には到底対訳できません。そこに至るルートは旧笹子トンネル入口から取り付き、笹子鴈ヶ腹摺山を経由し、いくつもの無名ピークを超えてゆく、なかなかハードなものでした。
落ち葉を踏んでゆく尾根通しのルートは遠目の彫りの深さにたがわず激しくアップダウンを繰り返し、屈曲しています、かと思うと木立のなかの桃源郷のような平地もあり、訪れる人もない静寂境でした。
双耳峯のお坊山東峰は、低い雑木林に囲まれていました、そこが「政おじさんの山」の頂上でした。「政おじさん、とうとう来たよ」私はそう心で言いました。長い歳月がこの山頂に沁みこんでゆくような気がしました。
そこからは木の間ごしに八幡村の方が見えました、八幡小学校、大神さんの森、霞森山の左は山地の畑あたりです、父はあの山地の畑から、小学生の私にこの山を指し「政おじさんはあそこからくる」と言ったのです。そしていま、その山頂に私は立っている、そこは標識もなく、時おり梢をわたる風の音がするだけの静かな山頂でした。
山頂から尾根は東に向かってゆるやかに降りていきます、かすかな踏み跡程度の道でした。おじさんはここを辿っていった、かさこそと枯葉を踏み、背広を着て、プラモデルの入ったカバンを持って、、、、。
私はこの山におじさんの面影を追いました、それはありえないことであっても、私はそうしてみたかったのです。
平成21年が明けてすぐ、政雄の分まで長生きしなければと言っていた父が98歳で他界しました。告別式の朝、その前の年に99歳で他界した岩手のおばちゃんと政おじさんの遺影の見守るなか、父は風間家を後にしました。それが三人兄弟の長い歴史を終えた日でした、率直な姉と繊細な弟2人の兄弟はそれぞれの子供たちからも自慢の親でした。
私は父に「政おじさんの山」のことは話しませんでした。勿論ほかの誰にも言ったことがないだけでなく、声に出して言ったこともありません、ただ私の心のなかにしまっておいただけでした。それは小学生の私にも幼児的なことであることは解っていましたので決して言葉にも出さなかったのです。
今年の1月に97歳の母が加納岩病院に入院しました、夕刻近くに兄と病室に行くと母は眠っていました。東側の窓から暮れようとする山なみが見えていました、山梨では山の陰影が時の経過を告げるのです。そのなかに夕日を浴びた「政おじさんの山」が見えていました、私は兄にそのことを言いました、兄は山を眺めながら感慨深そうにその話を聞いていました。兄には「子供の頃は」という言い方をしましたが、私には今もそうなのです。
政おじさんは、実際はその下を通る中央本線笹子トンネルを列車に乗って来たのですが、私はあの山のきれいなスカイラインを辿ってきたイメージを持ち続けました。
それは今も昔もかわらぬ姿で甲府盆地の東端の空を区切り「政おじさんの山」でいてくれるのです。私が死んだら「政おじさんの山」ではなくなるでしょう。
いろんな人の様々な想いを、山はいつも変らぬ姿で受け止めてくれるのです。
(F)
カテゴリー: tozan | 執筆者: Toshio Kazama