2017年01月01日 17時50分 | カテゴリー: 登坂力アップへ
だらだら元旦ハイキング〜新年アンヨ計画は八王子城址から〜
あけましておめでとうございます。今年の目標は、「坂道も歩ける散歩用アンヨ」の復活というので元旦から山城ハイキングをしてまいりました。
去年はひょんなことから山手線一周ウォークに参加して、それなりに完歩でまあ、ええかとおもたんだすが、その後、陣場山〜高尾縦走で、坂道用のアンヨがないことを発見。「失われたアンヨを求めて」の旅の始まり。なに、これはきっと宇宙のヒモ理論じゃないけど、我が体の異次元に丸まってしもとるんであるから、歩くことによってしか発見できませんからとにかく山っぽいところへハイキングすることにしました。
でも、ただ歩くというのは目標が曖昧で困るので、「大人の遠足ブック 高尾・陣場奥多摩を歩く40コース」(JTBパブリッシング)という本を買うてきて、この全コースを2017年に歩くことに。「日本百名山」派にくらべたら幼稚園か保育園みたいなもんだすが、この最初の方にでてくる「高尾山周辺」でもこちらは散散な目におうとるぐらい、アンヨは弱ってるのでちょうどよろしかろ。
40コースというたら簡単のようだすが、一年54週間だから毎週一回ぐらい。それに6月から9月中旬なんてえのは猛暑の年は、低山はもう暑うてよう歩かんです。いや、「山のシーズン」とかにだまされて、大勢の人が汗ながして行ってるけど、わしゃ無理よ、夏がシーズンちゅうのはもっと高い山のことですがなあ…ま、他人様の趣味にケチつけるきはおまへん。だた自分の季節としては1〜5月、10月〜12月しかなくて、それもずっと晴れた日が続くベストチャンスは冬の今ですがな。ぼけっといえにおらんどさっさと行かんかい、てなもんです。
というわけで、別に元日ったって、孫も婿殿の実家に帰ってるし、家にいても大してすることもないので、朝から、一番簡単そうな最初の方にでてくる「八王子城址」というのに行ってみました。高尾駅からバスで10分もかからんところから、ちょっとあるくと、「城館」があって、その山の上に「八王子城」というあまりきいたことのない城址があるらしい。なんと、「日本百名城」に入ってる、っていうのだねえ。22番目かなんかだと。…でも、正直、全然聞いたことがない。大体「百名城」だってなんだか怪しい。
まあ、どうでもいいや。城館に行く手前に「北条氏照の墓」ってのがあった。おやまあ、あの最後の北条の氏政の弟ではないか。はて、しかし、小田原落城のあと兄弟とも秀吉に切腹させられたのに、こんなところに墓があるとはしらなんだ。で、ちょっと10分ほど右側の丘の上に寄り道。確かに墓はあったが、なんとも大北条の最後の弟さんの墓にしてはほんと寂しい…とそばの看板をみたら、これは子孫の孫の孫あたりが100年後に立てた「墓」だった。つまり、まあ、いまなら記念碑とか慰霊碑みたいなもんだすな。いちおう手を合わせてごあいさつ。あ、ことし初のおいのりがお墓でんがな…まあ、ええけど。
北条兄さんは秀吉にぼろ負けして男を下げたが、それまでは結構、関東では頑張っていたのね。弟もそれなりの将器で、ここに居城をおきつつ、なんと古河あたりまで目配りを効かせていたそうな。当時の関東は結構、大変なところで頑張っていた。もっとも「古河」というと、「へえ、上野から東北線で、北へあの西茨城の」とか思うのだが、この裏の「本丸」があったという山に登ってみてわかったんだが、筑波山がくっきり見えるのであった。昔の人は、だから、「高尾から上野にでて東北線にのりかえて…」なんざ、まったくおもわずに、ホイホイと2、3日かけて往来していたらしい。思ったより近いのでありました。でも、馬とか足ですから、やっぱりたいしたもんや。
ところで、この「八王子城」なんだが、どうみてもパッとしません。まず、お館様の居住していた山の下がまったく三方半を山に囲まれたみるからにうっとおしい谷間の奥にあります。日当たりがわるい。いや、日はある程度あたるんだが、とにかく目の前も後ろも横も山で閉じ込められたような地形なのね。後ろの山城に登ると、たしかに関東平野一望できるから、まあ、いいや、てなもんかいな、ともおもうけど。
で、その山城、本丸に登る。いやはや、昔の人はすごいねえ…。完全な登山ですわ、これは。ちょっとやさっとでホイホイ、「いってくる〜」とかいう感じだったのかなあ。そういえば、比叡山で10年以上、修行してはった和尚さんなんか、こんなん平気で上り下りしてはったんやろな。しやから、80歳超えてあの元気やがな…こっちは4本足のストックついてもひいひいハアハア、フウフウの40分。これを登って、その上で命かけて戦いをやる体力なんてなあすごい。そもそも城郭をつくる石ひとつ上に持って上がるだけでも、わしなら、「や〜めた」となる。そんな山の上に城をつくったらやっぱりエライと褒めてあげたい…というので100名城に入れてもらえた…のかもしれないとおもいます。
wikiみると
>八王子城は標高445m(比高約240m)の深沢山(現在の城山)に築城されており、典型的な中世山城である。 縄張りは、北浅川・南浅川に囲まれた東西約3km・南北約2~3kmの広大な範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用 周辺にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には、深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は、5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。
とあります。
ただ、この「名城」、実はたった1日で落城してるのですな。1日で落城して「名城」はないんじゃないか、と思うんだけどねえ…。ま、戦いそのものをみると無理もない点もある。そもそも山城の戦いなんてなあ、せいぜい数十人から数百人規模ぐらいのことしか考えてないわけで、いまなら山賊の砦に毛のはえたようなもんだす。実際、このころの関東のあちこちでやって上泉伊勢の守とかでてくる合戦もそんなもんだったと記憶。
ところが、「1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた」てんだから、これはかないっこない。15000人…これはpc98にAirMacが襲い掛かったようなもんでんがな。
しかも「八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかった」というから、社長も重役もみな本社出張中の地方支社みたいなもんだったところへ、桁違いの兵力で攻撃を受けたんだからもつわけはない。
そもそもこうした山城は、本拠地から応援がくるまで持ちこたえて、相手の進度を遅らせるのが仕事なのに、肝心の本社は「小田原評定」というあの有名なダラダラ重役会議して、結論も援兵もだせなかった、というから、まあ、可哀想なのは立て篭もった下っ端たちや奥さんたちですわ。
>豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。
とあいなった。「大軍に戦術なし」みたいなもんで、実際は、裏表からわしわし攻めてこられてどうにもならんかったんじゃないかしら。
こうなると守備側は三菱自動車とか東芝とか、タカタの下請け企業労働者みたいなもんですなあ。てなことを本丸、というても武者が10組も争ったらいっぱいになりそうな武道場ぐらいしかない土地がそうなんだが、ちいさな祠とかたっているけど。ツワモノどもの夢の跡というけど、ほんと、当時のツワモノさんたちは大変だった。たったこれだけのウォーキングでひざはガクガクになっちまったが、わしゃいまの時代のヨワモノでよかったとおもいます。まあ、ことしは世界中変に変わっていきそうですが、ま、戦争だけはならんで欲しい…。
さすがに元旦だから、普段なら相当なハイカーが往来しそうなのに、全コース歩いても20人足らずの人にしか会わなかったです。山城の「天守閣」のあったちいさな平地から富士見という富士山の見える峠をへて、高速道路側へ下山。山の辺で犬を連れたスケートの真央ちゃんそっくりの少女に道を尋ねたら、一生懸命考えて教えてくれようとするのだが道案内なんかしたことがないらしくて、思っていることと言葉がなかなかつながらない案内ぶりがとても可愛らしかったなあ…今日一番ほっこりしましたで。
歩いた歩数はざっと2万歩。でも、坂道はやっぱりキツイですなあ…帰りの川沿いのフツーの散歩道で、恰好つけてウォーキングポ−ルしまったら、途端に転びそうになって、改めて年齢を自覚しました。40コース踏破したら少しはマシになるかしら?
ちなみに、去年からの登坂力強化100枚の薄皮剥がしプランでいうと12月17日以来の4枚目。2年かけて100枚剥がし、が目標だけど…どうも達成はかなり最初から無理っぽい(^^;)