中国ツイ友より翻訳依頼を受け翻訳。艾未未氏の映画「喜梅」嬢のツィット伝記;艾未未氏が映画にとったのと同じ人の手記のようなものが送られてきた。あまりの長さにびっくりしたがよんでみて、その悲惨さと、でも、なんだか元気なこの女性に感銘をうけ翻訳。そのツイ友@xeejing 氏からの依頼で翻訳。元々は河南省にいる喜梅さんが湖北省の@liumangyanさんにケータイメールで出したメールをあつめたものだそう。従って脈絡が不明のところも多々ありますが、とりあえず大意は分かると思うので拙速、拙文でもとにかくアップ。誤訳迷訳超訳ご容赦。(今後、アヤシイところも多々あるので、次第に改善したいとおもいますが…あまりあてになりませんわ。ご教示大歓迎)喜梅さんの映画は
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河南省のエイズ患者、喜梅さんのお話、電子ブック版ができました。無料です。こちらからダウンロードしてください。これは@nankyokugumaさんが、どーネーションウエアとして制作してくれました。明日はx-masイブ。間に合ってよ
私のこの病気は10歳ごろ、輸血が原因で、私の一生を台無しにしてくれた。95年の夏の有る日の晩、空には月が照り、私たちは麦の収穫の季節だった。私は家でひとりネズミが、その鳴き声が怖かった。私はこわがりでどんな音がしてもおびえてしまうので、大人が畑に仕事にいくといつも付いて行った。麦の収穫は小さな脱穀機をつかうのだが、大人は畑から麦の束を運んで、機械に入れるのに忙しく、私は機械のそばで洗面器や箕を使って脱穀された麦を傍らに空ける仕事を受け持っていた。
そのときはもう夜中の2時だった。眠くなっていたが、もうすぐ麦刈りが終わるのをみて、大人は休む暇もないほど忙しいのだから、頑張るんだ、と自分に言い聞かせていた。そのとき私の髪は腰まであって、頭の上でまとめていた。そして脱穀機の側で身をかがめたとなんんに、自分でも何が起きたかまったくわからないうちに、私の頭は脱穀機の回転する軸に強くぶつかり、目の前が暗くなった。大人たちも仰天して、兄嫁は私の腰をつかんで機械に巻き込まれないようにひっぱろうとした。
人々が機械を停止させたときには辺り一面の血だ。私の頭は髪の毛ごと機械の回転軸に巻き込まれてしまったのだ。
叔父さんが手で衣服の上からしっかり私の頭を押さえつけたので、「やめて、痛い、なんでこんなに熱いの?」と聞くと、叔父は泣きながら「おまえ、髪が頭の皮ごと巻き込まれたんだよ、こうして押さえていても血が止まらないんだよ」と叔父は泣き続けて私に話をしないようにいうのだった。私はかあさんに知らせたら大変、きっとショックで眠れない、と思ったのが最後で私の意識は遠のいていった。
目が覚めた時は病院で3日も経っていた。顔は腫れ上がり、頭は痛んだ。のどから頭まで全部白い包帯で包まれていた。腕も怪我しいて、服は真っ赤に染まっていた。私は泣いた。顔も唇も痛かったし、不安で、お腹もすいていたが、何より悲しかった。
兄が買ってきたラーメンをみてとても食べたかった。食べたいと思っても水を飲むのも痛くてつらいのだが、家が貧しかったから、どこかでこんな普段食べられないラーメンが食べられたらどんなに嬉しかったろう。でも口は痛くて食べるどころではなかったし、ただ毎日ストローで水を飲むだけだった。
その病院では親戚の血を輸血することは許されず、ただ血を買うことによってタンパク質とか、血を補給することができたが、そしてそれは私を救ったのだが、同時に私の一生を台無しにしてくれた。
そう、それが新祭県人民医院の医療だった。ある病院でよんだ本の中に「髪は女の命」とかいてあった。でも私は、一年中、夏も冬も、寝る時も帽子を被っている。それというのもあの日、あの時、私の運命が、こんなにつらいものに変わったのだ。
2004年10月、鄭州省防疫ステーションからエイズの話がでたときすべての人は仰天した。鄭州から戻って、家で半月あまり、治療にもいけず、食事は別にされて、隣の家の人は私を避け、変な目でみられて、親しい人とは遠ざけられ、そのうえ差別され、私はもう死にたかった。
心の中では早く死ぬ事ばかりかんがえていた。二番目の小父さん以外、会いたいとおもう人はなかった。いつも混乱して、もし母が生きていたらきっとこの病を怖がらなかったろうとおもった。絶望の日々だった。
家に居た半月の間、夜になると二番目の叔父と兄が門の前にうずくまって、絶えずタバコをすって咽せながらいた。私は高熱でまったく動けなかったが、彼らの話す事はわかっていたし、タバコのニオイをかぎながら、こんな様子をみてますますつらかった。
食事がのどを通らなかったので、二番目の叔父と兄は交代で私に水をのませてくれたのだ。でも、水ものどを通らなかった。のもうとしても吐いてしまうのだ。部屋の中はため息と悲しみでいっぱいだった。
十月のひえた空気の中でかれらはずっと咳をしていた。この晩、村の人は私がもうダメだと聞いて何人かの人がきて入り口でこんな話をしていた。「なんか食べたいものあったら買ってくるよ」。ほんとなら喜ぶところなんだろうが、私は「本当に自分は死んでしまうのだろうか」とおもうとなんともいいようのないつらさだった。
私は誰とも話をしたくなかった。おばさんたちは「あの子はなにもたべられないし、水を飲んでもみな吐いてしまうのよ」「あなたがたもこんなところにいると冷えて病気になるよ」「おじさんはもう都市なんだから身体が持たない、休まないとダメよ」とかいろいろな話をきいて、私は死ぬに死にきれないでいるのに、2番叔父を病気にさせるなんて。黙って涙をながすだけ。
私はこの家で生まれた子ではない。かれらの養子なんだ。それなのにこうしてくれるなんて、みんないい人なんだ。こんなにお世話になっているのになんの恩もかえしていない。
一晩中、叔父も兄もタバコを吸って咳をしている。十月の夜はほんとうに寒いのに、毎晩そうしてくれているのをみると私もねむれない。身体の痛み、毎晩の発熱、病気はほとんど堪え難いほどで涙がとまらない。この世をはやく去りたい、この病気から自由になりたい。こんな状態では死ぬこともできず、彼らに迷惑をかけるだけだ。
叔父がそんな私を見て気が気でない様子で私の心は更に痛んむ。叔父に「私、街の病院にいくから」というと叔父は「もう、夜だからね、おまえはまだ熱があるし、夜があけたらいこう。こんな状態で病院にいったらもう戻って来れないよ」と言った。こうして2番叔父は私の面倒を1年近くみてくれた。入院したころ払ったお金で叔父もおばのお金も私の為になくなってしまった。
それで彼らの間で諍いもおきた。お金がすっかりなくなってしまったので、2番叔父は道路工事の仕事にでて私の生活費を稼いでくれた。
そんなときなんとおそろしいエイズの血が私に輸血されたのだった。今日まで、こんなにみんなに差別され、嘲笑われ、閉じこもらなければならない暮らしを余儀なくされた。一生怨んでも恨みきれない、決して忘れる事のない日々をおくらねばならなくなったのだ。
私は家に帰りたかった。でも、私が帰りそうだ、という噂が広まると、ある人はあわてて仕事にでかけたり、私のことで家中喧嘩になった。兄嫁は、家が狭いし4人でいっぱいで、叔父もいるし、私の居る場所がない、といった。
両親のいる子がうらやましかった。そしたら思い通りにならない時もそういえるし、愚痴もこぼせるだろう。
私はいま のこんな状態で学校の友達にあいたくなかった。一緒に遊んだしってる顔もみたくなかったし、彼らに会うのがこわかった。
きっと私のことを聞いてるだろうし、びっくりするだろう。
そうおもうとますます心が痛んだ。兄がみまいにきてくれて帰って行ったあと私はとうとう我慢できずに泣いた。泣くのもつらかったがしかし泣きあかすと気持ちがすこし楽にははった。この病気はコントロールできるが根治させることはできないのだ。
2009年4月1日、2級障害者証をもって生活保護をうけようとた。だが、化庄県の役場は私が生活保護を受ける事を今に至るまで認めてくれない。ずっと書類がないとかいわれつづけている。
もう20歳にもなって、こんなに大きくなって、悲しい。死んだ方がいいのに生きている。したい事はなにもできない。小さい頃夢見たことは水の泡。以前の友達ももういない。すべてが悪夢のようだ。昔の元気活発な私にもどれたらどんなにいいだろう。
この病気のせいで私は生きていたくないとおもうようになった。ああ、自分の家族、自分の家があったらどんなにいいことだろう。病院にいるんじゃなくて、家にいて、そして家族が自分を恐怖の目で見るようなことがなく、影でこそこそいわれたりせず。自分も脅えないで暮らせたら…
ここでは私ひとり、ときには病人仲間がくることもあるが、彼らがいってしまうと私には子猫と子犬しかいない。小さい頃、猫がきらいだったが、今は猫たちだけが私と一緒に居てくれる。猫達とあそんでいるときだけ、私は気持ちが軽くなる。
私の食事はおいしくないけど、でも分けてあげるんだ。もし少しでもおいしいときは、おおくわけてあげる。だって猫だけが私にあたたかく接してくれるんだもん。私が家に帰りたいなんていったら、お兄さんと兄嫁がきっとまた喧嘩して面倒になることをしってるし。
私がかかったエイズは、結局のところ”伝染病”であって、兄夫婦の家庭に悪影響を及ぼすし、特に男の子に、「叔母がエイズにかかっている」、なんていったらたちまちフラれてしまうだろうし、迷惑をかけないためにも、私は病院にいるしかないのだ。
2007年、私はどこにも行く場所がなかった。本当に穴でもあれば入って隠れてしまいたいほどだった。このおそろしいエイズにかかってこんな有様になって、私は運命を呪うしかなかった。
人をののしることはしなかったのに、なんで自分はこんな運命になっちゃったのだろう。私は村の役場に行って呉という人にどこか私が居られる場所をさがしてくれるようにたのんだ。病院だって、どこだってとにかくありさえすれば、どうせどこにも行く場所がないのだから彼に感謝した。だれもが私をみたら、みな病気がうつるのをおそれてにげだす。
私は年齢を聞かれるのがこわかった。自分でもしらないのだ。誰かが24歳から27歳の間だといった。身分証には82年とかかてれいるが、裏面の生年月日も違っている。私は学校をやめて深圳で働こうとおもったが、年が若すぎたので工場につとめることはできなかった。この身分証は学校の先生が助けてくれて手に入ったものだ。
あのころは住所があってさえすればよかったのだ。でも、私が18歳未満だったので、ダメだといわれた。ただこうして大きくなったのでいまだに一体自分はいくつなのかわからない。むかし私の生母にいくつかきいたことああるが、25歳だといった。
人は1年に一歳としをとるのだが、私は数日でいくつも年をとってしまったことになる。母は、私をおいて逝ってしまったので私はとても悲しかったし、母のことがとても恋しかった。
私は貰い子だったが、母はとても自分の子以上に私を愛してくれた。とても貧しかったがいつも私にはやさしく怒られたときだってあたたかかった。でも今、私はもう帰る家もない孤児だ。もし母の命ととりかえられるなら、そうする。
この一切の病気のせいで苦しい思いを考えたら、死んだって平気だ。私は疲れた、精神もすり減ってもうダメ。もし普通の人と同じ様に少なくとも住む家があれば、心は耐えられるだろうが。たった2間の家でもいいから、自分の家があったらな満足だ。
2007年、洪水がおきて、私は化庄村の役場に、家のことで洪水で部屋の補償をしてほしいといったが、はじめは村役場は上につたえたがらなかった。何回も通って家のことを訴え、李所長は「伝えた」といったが、その後電話で「部屋ができた」と尋ねると、「上に伝えた」とだけ。でも家の方にきくと、影も形もない、という。
私は腹を立てて県の民政局に行くと袁という局長が応対して「そんな話は聞いてない」という。「そんなばかな」といったが、所長はその話を上にあげていなかった。
幹部なのにどうして人を騙すのか。やる、といったことをやらないで。袁局長は、もし上がってきていたら自分にはわかるはずだが、化庄村の書類には私の名前がない、という。今にいたるまでそのままなのだ。
2009年1月12日、この日私は朝早く県委員会へいき、ホールで史県長にあって事情を説明した。県長はすぐ化庄村の張書記に手紙をかいて直接、張書記に渡して、家と経済的な困難の解決をはかるようにと言った。
史県長の手配で、張書記は600元の問題で民政所に解決する様にいい、私は民政所は私に400元払った。400元だったけど、私はうれしかった。これで2か月は十分食べられるのだから。
私は1日1回しか食事をしないし、これで師走(旧暦の)の分になる。それにこれははじめて政府が私に払ってくれた多額の援助金だし。でも疲れた。毎回県委員会にいく日は一日中なにも口にしないし。
でも史県長は6月には家もたてられるといってくれたし。が、村の役場は引き延ばしに、村の委員会とそうだんするとか、養老院に住めとか、獣医住宅や、ボロボロの村の委員会の建物に住めというのである。またしても話は決裂した。
建てる場所がないとかもう空中に住め、とかとにかく建ててくれはしないし、口汚く私を罵るのだった。私も時には激しい事を言ったがでもあの役人達の様にひどい言葉はいわなかった。
あれが共産党員たるものの言い方なんだろうか。どこにも村の幹部の重みはありゃしない。汚い言葉をつかって。8月6日になっても問題は解決しなかった。
私はまた県委員会へいき、彼らは化庄村役場に電話をした、で村役場では村の職員私のところにこさせて解決するといったが、しゃべるばかりでまた同じ事だった。
彼らは警察を呼んで私を追い払うことまでしたが、警察も私をしょっぴく理由はなく、ただ帰れ、というだけだった。帰れば問題解決、毎回そういうが、私が帰ってもなにも問題は解決されなかった。またもどっても担当者は居ないし、居ても話を聞いてくれなかった。
2009年7月3日、私はまた県委員会政府の史村長をたずねた。それしかなかった。彼らは私の家のことをかまってくれないし、で、史県長はエイズの事を担当していたからだ。
史県長はまた村の張書記に手紙を書いた。やはり部屋の問題の解決のためだった。だが、村政府は私に家をたてるための土地をさがせと、また、さがせなかったら、空中にでも建てるんだな、とひどいことをいったが私は黙って聞いていた。
彼らは明らかに私をこまらせようとしているんだ。他の人にはたててやっても、私はひとりだし、身障者だし、行動もロクにできないし。でも私は引き下がらなかった。村の主任を尋ねて、状況を説明した。主任は土地をさがしてはくれたが、でも村の役場はお金を払うのが嫌で、2、3万元かもっとないと無理だと。
どのみち建ててくれないんだ。もし家があったら、病院に何年もいないよ。何年ものあいだずっと人にあれこれ指図されてくらすなんで誰もがいやだし、誰かと本当におもってることを話したいとおもったって誰もいないんだもの。
出かけるといつも人に、「あんたは全身が病気だらけなんだ」とかいわれて、うんざりする。もうそれで家からでたくなくなったりする。こんなプレッシャーで毎日自分をおさえていると、だれだって仕事にやとってくれないよ。
私が服飾店をひらきたいな、なんていうと人は「あんた自分で食べる事もできゃしないのに、どこにそんな店を開くおかねがあるのよ」といわれる。でも、夢をみることもできないの?そう、自分で食べるものろくにないのに、全部他人におせわになって、一椀の麺や油をもってきてもらったり、お金をもらったり、兄嫁にかりたり、そんなこといやなのだ。
私は障害者だけど、でもこんな風に助けてもらいたくない。こんなふうに施しを受けていると更に悲しくなるし、心が痛むし、自分にも圧力を感じてしまう。毎月の生活保護費はたった60元(780円)、私は04年10月に入院して、2006年の下半期からやっと生活保護がもらえたのは1年も引き延ばされた後の事だった。その理由は彼らに贈り物をしなかったからだ。
まさにその理由によって、私は郷政府に借金しようとして、結果はしってたけどやってみたらやっぱりそうで、2007年8月6日、河南省政府は文書で、エイズの病人の居る家庭で政府の援助を必要とするものを報告せよとある。
もし私が健常者ならこんな病気でなかったら、仕事をさがして、役所のエラい人に迷惑をかけたりしない。それなのになぜ文書がいったん下の方に下りてくるとこんなになっちゃうんだ?まさか百姓は物が分からないから、騙してもいじめてもいい、とでもいうのか?
それどころか、彼らの話し方も口汚く、酷薄で、冷たい言葉を平気であびせ相手にしようとしない。そのうえ相手を見下し怖がらせるような目つきでみて、悲しい思いをさせる。人間は良心を大事にすべきなのに、私はあの役人達をもう信じる事はできないし、同時に連中のやり口と、正体をしってしまった。一体良心はどこへなくしてしまったんだろう。
小さい頃からわからなかったが、今はわかる。なぜみんなが役人には勝てないと言っているのか。あのときの下っ端役人はすごく悪い奴らなんだ。でも古いことわざにもあるとおり、「正義の理は天下に通る」だ。
国の書類は私たちに関心を寄せてくれているし、私を頑張っていくようにはげましてくれている。そのうえボランティアのみなさんや大学生や有名人の人たちまで勇気をもって頑張る様に親切に励ましてくれているじゃないの。
私たちに確固とした信じる心をあたえ、たとえ役人が悪いやつらでも、すべてが買収されているわけではない。
私はもうお金をみんなつかってしまったけれども、でもたくさんの人が私や同じような病気の人たちにに関心をもってくれて、助けてくれている。多分、いまこの社会では私のような目にあったひとは少ないのだろうが、毎日お金の事が心配だったり、あす食べるものがないと心配だったりする人はどんどん増えている。
私はこの病気の人たちからお金をかりているんだけど、生活保護費が半年かかってももらえたらすこしづつ返せるし、大変だけど、でもうれしいんだ。私たちのことを馬鹿にして嗤う人もいるのはしってるよ、だけどもうこわくないの。だってそんな人たちの視線に負けないもの。
簡単に命をあきらめない。応援してくれる人たちに顔向けできないじゃないの。きっと言い分を認めさせる。上が下にちゃんとした命令を出したというのに、なぜいつまでもやらずに引き延ばしているのか。貧乏人だって誇りはあるわ。勇気を持って、誰にみられたってもう怖がらない。自分の行くべき路にまっすぐ向かって行く。
★これは中国のツイ友@xeejing からの依頼で翻訳しました。元々は喜梅さんが@liumangyanさんにケータイメールで出したメールをあつめたものだそうです。従って脈絡が不明のところも多々ありますが、とりあえず大意は分かると思うので拙速、拙文でもとにかくアップしちゃいます。誤訳迷訳超訳ご容赦。喜梅さんの映画はhttp://www.56.com/u16/v_NTY3Mjg4NTM.html
なお原文は以下のとおり。
*血祸:一个艾滋病患者的短信!***
我这个病就是在我十来岁,输的血,也毁了我一生!在95
年夏天的一个夜晚,天上月亮也亮,我们这是收麦子季节,我一个小孩在家害怕,怕老鼠,更怕它的的叫声,不管有点啥动静,我都很害怕,大人都去地里忙,我也跟去了,因脱麦子,用的是小型脱麦机,脱麦子,大人忙着把麦秧往机子里塞,我在机子这头负责用盆,簸箕接端麦粒,把麦粒倒到另一边,那时已是夜间
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点了。我是困了,可我看看麦子就快打完了,大人们也都在忙个不停,我就对自己说,再坚持会。那时我的头发长在腰部,头发扎的高。那脱麦机上的租长,我只知道一弯腰就什么也不知道了。就在刹那间,我的头被机子上的卷轴打晕了,大人也都吓傻了。吓的话都说不出,嫂子只管抱我腰,向后挣,当人把机子停了时,场地顿时一大片血,我的头发带头皮被机子上的卷轴卷带卷掉了。三叔用手,衣服捂住我的头,我就说,叔,别捂我头,疼。咋又这么热,叔哭着说:孩子,你头发带头皮都被机子卷掉了,不捂不行,就这用衣服捂还捂不住血流呢!叔一直哭着,不让我说话。我说别让我妈知道,不然她会受不了的,更睡不着。就说这些又什么都不知道了。等我醒来,已在医院睡了三天三夜了。我的脸肿痛,头痛,头,脖子都被白纱布包裹着,胳膊也碰伤了,浑身衣服变红色了,我哭,脸也疼,嘴也疼,心里又烦躁,又饿,心里特难受。看着我哥买的肉丝面条很香,我就想吃。比说吃,连喝水都痛得难受,因家庭经济不好,在那里能吃到这样的面条,我真的很开心,平时吃不到,但我的嘴不能吃,只能每天用管子喝水。就在那里输的血,又不让输亲人的血,只能买血,输什么蛋白,说也是补血的,就在那时救了我,同时也毁灭了我的一生,是在新蔡县人民医院治疗的。这是一个医院的一本书中写到,一个人的秀发也是人的第二生命,可我呢,一年四季连睡觉都戴着帽子,也就在那时,改变了我的命运。从此就是坎坷痛苦的。
2004年10
月份在郑州省防疫站查出这艾滋病,当时整个人都崩溃了,从郑州回来,待在家里半个月,不去治疗,就是在家等死。饭碗隔离,邻居的躲避,怪异的眼神,亲人的疏远,远离,又加上别人对我的歧视,我根本一刻也不想活。心里就想着就赶快死掉。除我二叔外,我什么都不想。我老是乱想,想我妈妈要是在,她绝不会怕我这病。心都绝望了。在家待半月里,每天夜晚二叔和哥都蹲在门口。他们不断地抽烟咳嗽,虽然我不停地高烧,也动不了,可我心里都知道,他们在说话,听到咳嗽声,闻到了烟味,看他们这样,我心更难过。因我吃不下饭,二叔和哥他们一会儿替换用勺子喂我喝水。水就喝不下去。喝点就吐。屋子里充满哀叹声,十月的天冷,他们又一直不住咳嗽,这天晚上,村庄的人听说我快不行了,所以来了些人,站在门口说,她想吃啥就买点,我听到这话,心里特难受,当时心情都没法形容,心里在想,难道真的要死了吗?其实我听到这话,应该高兴,可此时的心情又感觉痛苦。
我不愿跟任何人说话,她们说我什么也吃不下,就连喝点水都吐了还吐。又有人说,这样不把你俩冻病了!又说,叔年纪这么大,可经不起折腾。又休息不好。说了好多,虽然我睡在床上不说话,可我心里都清楚,我死又死不了,反而把二叔折腾病了。就在那默默流眼泪,又想我不是这家亲生的,我只是他们抱养的孩子,他们这样对我,都不错了。他们把我照顾这么大,我还没报恩呢!在一天夜里,二叔、哥又不断抽烟咳嗽,在十月份天气深夜可冷呢,看着他们每天这样,几乎没睡,我很痛苦,每天不断发高烧,病折磨得我好难受,眼泪止不住流。多想尽快离开这世界,离开这让我很痛苦的病。现在这样我不但死不了,还连累他们家。我看着叔着急又说不出的样,我心又痛又难过,我就说,二叔,我现在去街头卫生院,二叔连声说好。现在是深夜,你还在高烧,等天蒙蒙亮就去,就这样在街头卫生院一住就回不去了,二叔在这照顾我快一年了。刚住院,说我的证没办好,又交了半月钱,哥嫂他们钱也被我花完了,就因这,他们还吵闹过。二叔的钱也被我花完,因没钱,二叔只好出去帮人修路给我生活费。没想到就在那时,竟输了那令人可怕的血,导致今天这样不堪,过着天天被人歧视,嘲笑,自闭的生活。给我一生也留下又可怕可恨,又难忘的生活。在我住院一年多,我很想回家,可村子里一听说我要回家,有的连忙出去打工,有的甚至还为我回去吵架,嫂子说家里住不下,家里是窄小,哥嫂他们都四人了,还有我叔,所以住不下我。我很羡慕有爸爸妈妈的小孩,他们若有不顺心的事,可以说,发泄,可我呢?!正是因为现在这样,我很怕见到以前的朋友同学,还有和我一起玩大那些伙伴。还有那认识的人。我不敢看他们。更害怕见到他们。他们可能都听说我得了艾滋病,肯定吃惊,心里越想越难受,很痛苦。哥他来看我了,等他走后,我压制不住了,也实在忍不住哭了,虽然哭的痛苦,但哭出来心里舒服多了。这病虽可控制,但不能根治。
在2009年4月1
日办的二级残疾证,纳入低保。但化庄乡政府及民政所至现在还没有纳入低保,我曾找过他们问了好几次,都说残疾证什么都没有,回头想一想,我现在已经二十多岁了。活到这么大,真是可悲。生不如死的活着!想做的事,做不成,梦想早已成泡影,不要说以前同学朋友。这一切,就像是在恶梦里一样,多想回到从前活泼开心的我呀!都是这个病害得我痛不欲生。我好想有个属于自己的家,不在住医院了,不想在别人眼里一直是个病人,更不想看到他们恐惧的眼神,让人看了都哆嗦,心里在害怕。在这里就我一个人,有时来一下病人,等他们走了,我只有小猫小狗陪我。我从小也怕猫,但现在只有它们能陪我。只有它们不会害怕我,远离我。它们让我感觉很亲切,在跟它们玩,我觉得很轻松自在。虽我的饭菜不好,但我总会和它们分享,即使吃上一顿好的,我愿让它们多吃。因它们对我很亲近,也让我感觉好温馨!我要回去,哥嫂他们就会吵架,事情发生过多次,我现在能体谅。
因我得的是艾滋病,毕竟是传染病,对他们家庭及小孩都会造成伤害,影响他们的家庭,尤其是男孩,有人会说他有一个小姑得了传染病,就会嫌弃她,要不拖累他们,我只有住医院了。
2007
年曾赶我走,因我确实没地方可去,当时恨不得找个地洞钻进去得了。得了这个可怕的艾滋病,今天却落个这样的下场,我就埋怨天,我说骂人我都不敢,也不会,现在我的命运咋是这样呢!于是我就到县政府找领导。找一位姓吴的他帮我解决住宿,虽还是医院,但毕竟有住的地方,我心里还是感谢他。我实在没亲戚投靠,谁见我不想躲远,总是怕这病会传染给他们。我怕别人问我多大,因为我自己根本就不知道多大,有的说,
24至27,身份证是82
年,后面几月几日也是错的。我那里下学,去深圳打工,年龄太小,进厂进不去,是学校老师帮忙办的身份证,那时只要填对地址就行了。就那还小,差点又跑回来。她们不要我,说我不满
18岁,只能办这么大了,所以,还在还搞不清我到底多大,我也曾问过生母,她说25
岁,我们这是过一年就一岁,我是差几天就过年了,尤其是妈妈永远永远离开了我,我心很痛,也很想妈妈。虽我是她抱养的,但妈妈疼爱我,超越她亲生的。那时虽然很穷,但每天有妈妈的关心,叨唠,还是挺温馨的,可现在,成了无依无靠无家可归的孤儿,要是用我的命能换回妈妈的命,我愿意让一切最恶劣的病来折磨我,就是死我也不怕,我真的很累。精神要崩溃了。为了能有房子住,能跟别人一样,最起码能有住的地方,心里也踏实了。我好想有个属于自己的家,哪怕就是二间房子,我也很满足了。这样别人就不再说我这艾滋病女孩到现在连个家也没有,心里也会好受点。
在2007
年发水时,我曾向化庄乡政府民政所,反映房子的事,因发水要补贴盖房子,开始民政所不愿意向上报,我回去找了他们好几次,给他们再次说家里的情况,李所长说报上去了,等别人房盖一人高了,我回去不方便,就打电话问,房子盖了吧?民政所所长说,报上去了,谁知家里说,连影也没有。哪会盖呢,我就很生气,就到县民政局问,当时接待室袁局长他说没报,我说不可能,所长都说报了,再说他身为一个所长,一个干部,怎能会骗人呢?再说不可能说话不算话,袁局长说,真没有报上来,如果报了,我查出来了,可化庄乡没你的名字。就这样托到现在。在于
009年元月12
号,这一天我很早到了县委,他们让我进接待大厅,那是星期一的上午,史县长接待,把我的情况给他说了,史县长就给化庄乡张书记写了封信,叫我直接把信交给张书记,让他帮忙解决房子还有经济困难。按史县长的安排,张书记让民政所解决六百元,给民政所就给了四百元。还让我到民政所领,虽是四百,我心里很高兴,这够我两个月的生活费了,我一天或两顿饭啊。这是腊月份,也是第一次领政府救助这么多钱,也很累,每次跑到县委或乡政府都一天吃不上饭,不过史县长说,六月份给盖房子,可化庄乡政府一直托,又说跟村委商量什么的,又说让我住敬老院,兽医站。还有破裂,又漏的村委房,还限制我,用话冲我。说没宅基地,盖天空里吧!有地方他们就是不给盖,有时候他们说话
執筆者: Jun