JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
(4DR5)
ジープに乗り始めて間もない頃、私もご多分にもれず4WDの能力を過信していた。
最初に買ったのはJ30だった。購入動機はあのスタイルが総てだったからフロントドライブはおまけ程度に思っていた。しかし機能は試したくなるもので次第にオフロードに行くようになり、例のたて溝のオンロードタイヤでろくにレスキューツールも持たず雪山から精進湖林道まで行った。たいがい家族連れで単独だったから今思えば冷や汗ものだった。
私は元来バスやトラックが好きだったからディーゼルエンジンへの憧れがあり、やがて4DR5のJ-36に乗り換えた。非力で瞬発力はゼロ、小回りは効かず鈍重そのもの、牛のような車だったがその弱点の総てがあのフォルムによって許容されてしまう車だった。
ある冬の日、降雪があったので家族と山梨の実家の父を乗せ林道に向かった。
発売されたばかりのジープサービスという重い700-15のバイアスタイヤを履き、空気圧を下げ、これでもかとばかりに4輪にチェーンを巻いた。その総てと家族を80Psの4DR5が背負う。
平地では鈍重な4DRだが大減速のトランスファーとの相性でなかなかの粘りをみせる、鈍重さはむしろトラクションを生み、4DRを見直すのはこんなステージである。
湿気はあるが新雪のため見た目より走破できて、調子に乗り奥地まで入っていく、さすがに積雪が30Cmを越し始めると抵抗が増し、4DRが苦しみだす、独自のトランスファーの唸りと相まって、なんとも動物的な重苦しい喘ぎである。シフトアップしようとクラッチを切るとガクンと止まってしまいフロントガラスに頭をぶつけそうになる、通常なら考えられない挙動から並々ならぬロードがかかっている事を実感する。
フロントバンパーで雪を押すようになると一息では押し切れなくなりエンジンがストールするようになる。一旦後退し、勢いをつけて突進すると5mくらいは前進する、あたかもスノープラウを付けた除雪車のようである、前進できなくなると1,6トンのJ36が小刻みに跳ねる挙動を示す。4輪チェーンでグリップさせ、しかも前進は苦しいなかで、車としては逃げ場がなくジャンプするしかないのだ。機械も人間も、苦しさから逃げたいことには変わりない、それはまさしく生きた反応である。クラッチの焦げる匂いがして、限界が近いことを感ずる。タイヤのグリップは最初の逃げ場であり、それを制止されたらクラッチの滑りに逃げ場を求める、強化クラッチなどでそれを制止されたらストールしてギブアップである。更にエンジンチューンなどで無理やりパワ-アップすると最終の逃げ場としてプロペラシャフトをねじり切って窮地を脱する。車の側に立てばこんな風な生体反応をする。最後は弱いところにしわ寄せがくるというのは全くの道理で機械も生物も境界はない。
J36のもがき苦しむ苦役を際限なく繰り返していると、黙って助手席に乗っていた父が突然、「もう止せ」と言った。ハッとしてアイドリングに戻すと、憮然として「いいかげんに休ませてやれ」と言う、堪忍袋の緒が切れたという感じだった。私の執拗な、そして無意味なラッセルに嫌気がさしていたのだろう。
しかし、それは私の行為に辟易としての意味だけではなかった、「休ませてやれ」という父の言葉には驚いた。
( 赤牛 )
父は明治45年に山梨の山村に生まれ、兵役から代用教員を経て農業に従事した。その時代はまだ人力の時代、鋤(スキ)や鍬(クワ)で田畑を耕し、坂道を背負子とリヤカー等で荷物の運搬をするという、まさに農業は肉体を酷使する苦役の時代だった。
やがて赤牛という、性格はおとなしく忍耐力のある農耕牛を飼うようになった。赤牛にはリヤカーを引かせ、水田を耕す仕事などをさせた。
鋤を引いて田を掘り起こす作業は重労働である、渾身の力で深く喰い込んだ鋤を引く、薄茶色の毛並みは汗をびっしょりかき、褐色になる、苦しさに耐え切れず立ち止まると、よだれを垂らし、荒い息ずかいをする。父は喰い込んだ鋤を後退させ、頃合いを見計らって牛に気合を入れ、勢いでそこを乗り切る。
そんな牛の目に涙を見ることがあった、その涙の意味は何であろうか、子供の頃は牛は苦しくて泣いているのだと哀れに思った。
父はそんな牛をいたわった。田植え前の重労働の時期はカロリーの高い麦を牛にも食べさせ、体調を気遣う。
牛の引くリヤカーに面白半分で乗ろうとして父に怒られたこともあった。カラッとして天気の良い日は牛の毛並みに父がブラシをかけてやる、牛は気持ちよさそうに尻尾をふる、厳しい農作業の合間の、のどかなひとときであった。
やがて山村にも遅まきながら機械化の波が訪れ、通称「テーラー」という耕運機が普及し始めた、「テーラー」はアタッチメントの交換により運搬車の牽引から乗用、水田の開墾までこなす万能機だった。
機械好きの私はその導入は嬉しかったが、一方で牛小屋で暮らす赤牛の運命は明白だった。業者が引き取りにくるという赤牛の行き先を父に質問しても返事はなかった。それは子供なりに「聞いてはいけないこと」の意味を理解しなければいけない事だったのだ。
トラックが来た朝、それは赤牛が小屋を出てゆく日だった。
赤牛はトラックに乗るのを嫌がり、牛買いの人を手こずらせた、父が声をかけて牛を押すと、安心したのか観念したのか、牛はトラックにあがった。
荷台のアオリが閉じられると、牛買いの人はろくに口も聞かずトラックはあっという間に出発した。
坂を降りてゆく赤牛、一声も鳴かず、黙って運命に従った赤牛。父はそれを見送らなかった、ガランとした牛小屋を見るとこみ上げるものがあり、泣きそうになっていると父が来たので逃げた。父はさっさと小屋の片付けを始める、私はなんと薄情な、、、、と思った。
父はJ36のラッセルに何を思っていたのだろうか、トランスファーの重苦しい唸りは赤牛の息づかいであり、もがき苦しみ、押し切れず後退しての突撃は赤牛の弾く鋤の重さを連想したのではないだろうか。「休ませてやれ」の一言の背景を、私はそう思った。
( 野背坂 )
私の幼年期の謎のひとつが車は生きていないのに何故力を出すのだろうかということだった。力というのは牛や馬や人間が踏ん張って出すという感覚しかなかったからだ。
やがて燃料が爆発してそれがクランクを介して云々というのを知った時は目からウロコが10枚くらい落ちる飛躍的な概念の拡大だった、それは大げさに言えば機械文明というものの入り口であり、私の幼年期から少年期への階段だったように思う。しかしそれを知った上でもなお、私にはパワーというものが肉感的に感じられる。
私の生家は野背坂という峠へ向かう坂道の途中にあった。そこで牛馬の荷役を見て育った私には、それが車に代わっても坂道では苦しんでいるように思えた、牛も馬も人も、そして車も、野背坂には苦しんだのである。
そういう環境から、働くということは肉体労働なのだという意識をもった。しかし自身はディスクワークの職業になったことに、どこか申し訳ないような感覚があった。
私は馬よりも牛が好きである。内向的で親を手こずらせた私には、あの寡黙な鈍重さは私の核心部にもあって、共感を感ずるのである。あのように黙々と働ける人間でありたいと思う。
思えば車にはそれがある、究極の寡黙さ、そして無類の持久力と変わらぬ誠がある。自分もこうありたいと感化される部分である。だから私は働く車が好きになったのだと思う。働く車のなかに、私は黙々と働く牛を見る。それは牛馬とともに生活し、共に働いた父にしてみれば尚更だったろう、ラッセルにもがき苦しむ36に、父は牛の苦しみを重ねたのではなかったろうか。
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父は数年前の一月に98歳で他界した。
私はいつか牛との別れのことを父に聞いて見たいと思っていたのだが、デリケートで照れくさい話題なので口に出せないでいるうちに父は難聴が進み、ついに聞かずじまいになってしまった。
赤牛が家を去った日の父のことは、子供心に冷淡に映ったのだが、苦楽を共にし、あれほど労った赤牛との別れである、父は想いを押し殺していたのではないかと思う。
36は今も山梨においてある、機関には問題なく、たまには乗り込んでエンジンをかけてみる、
馴染んだキャビンに座って4DRの音を聞くと、あの日の父のことを思い出す。
(F)
執筆者: kazama
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