JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.

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Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN

2020年09月06日 16時19分 | カテゴリー: 四輪駆動車

ジープワゴン回想

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 40年以上も我が家にあったジープワゴンが去ってから想うのは,
あまりに存在が日常化し、それがなくなった今も、まだ無くなった実感がない。決して大切にしていた訳ではなく、むしろ放っておいたというのが近いからか。地味で鈍重な「おばさん」風なキャラクターは、居てくれればそれで良い存在だった。
 といっても最初からそうだった訳ではなく、かなり惚れ込んで手に入れたものだった。

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(ほんとに便利に使ったハイエースワゴン 9人乗りの後席を畳めばバイクが積めた。歴代のクルマでこれほど役に立ったクルマはなかった。1500のOHVは低速トルクもあった。なのに洗車もせずオイル交換もろくにせず、私にしてはどうかしてた扱いだった)

20代後半はまだオフロードバイクのウエイトが高く、その運搬への必要性からワンボックスに乗っていた。そこへ時折すれ違う官公庁のジープワゴンのマルーンとアイボリーのバスみたいなカラーに悩殺されていた。
 それがある日、通勤途上の中古車ディーラーにあり、売り出されていることにクラクラきた。初めて車内の詳細を見るとやはりマルーンのお洒落なベンチシートで雰囲気満点である。大切な条件はバイクが積めるかどうか。。。
後部シートを畳み、ハンドルを倒せば何とか積めそうである。。
これほどのスパルタンで、またムーディでクラシカルなワゴンにバイクまで積める!!。
 官公庁のジープワゴンを個人で所有できる。。そのことで興奮状態になったが、このワゴンが4WDであることは付け足しのような物だった。
 買った日のことは40年以上を経た今でも鮮明に覚えている。
12月14日、赤穂浪士の討ち入りの日である。
受け取っての帰路、恐ろしく鈍足なのに驚いた。2300ccのOHVがこんな筈がない。家についてすぐ、もう午前0時を廻っていたが点火時期を見ると何と上死点後。。ディストリビューターを山感で廻しただけで劇的に改善した。
 年末にジープワゴンで帰省すると、田舎の父母が役所のクルマかと驚いた。

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家に来たてのジープ 千葉県習志野市まだCB72があった!!

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キャンプ場には滅多に行かず 林道でよく泊まった

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(ルーフの上に設置したテントは中々のものだった
南アルプス遠山郷の夕暮れ 旧海軍の偵察機操縦員の先輩)

 当時このワゴンを個人が乗る概念は薄く。林道のゲートを開けてくれたり!工事車両を恐縮しながら除けてくれたりと、そこまでされると逆に遊びだと知れた時の怖さがあった。その逆に空き地の雑草を何とかしてくれとか。。(笑)そんな時は自家用だというと、係りが違うなら伝えてほしい(笑)それほど公用イメージの象徴のような車だった。
やがてトラック、バスのファンだった私はディーゼルへの憧れがあって,ガソリンのJ34からJ36に乗り換えた。当時は軽油が60円ぐらいで燃費の良さと相まって長距離のドライブが多くなった。北は下北半島、西は鳥取砂丘。すべてが単独で車中泊とルーフに載せたテントだった。ジープとしての走破性は頼りにはなったが保険みたいな感覚だった。

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青森の白神山地まで登山に行った。笹川流れ近くの日本海. 霞む粟島

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常神半島の夜 車内の灯り

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富士山のテント 強風の一夜が明けてホッとした

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スタックも結構して子供まで手伝わせた。
ウインチ脱出の話を小学校ですると理解されなかったらしい

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不気味なダム湖の畔でスタック。ずっとそう思っていた。。
ふと見るとブロックの石崖だった。思い込みの恐ろしさ、認識の危うさは忘れてはならない人間の 知性ゆえの(笑)想像力である

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ワゴンにPTOは野暮という向きもあったが造形も好きだったし
いつも単独の私には必須のレスキューメカだった

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36Bになってリクライニングシートになった。
こんな他愛もないことに喜ぶ娘たち

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しかしベージュのモケット張りが気に入らずクラシカルな旧タイプのインパネに変え、シートもツートンに張り替えた

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やがて子供たちが免許を取ると,家にあるジープが娘たちのファーストカーになった。
乗用車をしらない娘たちは知らぬが仏で鈍重なジープワゴンを普通のクルマとして乗った。ベンチシートでオムツを変えていた娘が免許を取り、運転するジープの助手席に乗るのは感慨深かった。
シフトのタイミングは永年音で聞いていたのだろう、私とそっくりだった。コーナーの進入速度が速いので注意すると「お父さんもこういう運転をしていた」と言う。考えてみれば立ち上がり加速の遅い4DR5のディーゼルをカバーするために、極力速い進入をしていたのだろう。
 一度友人のJ58を娘が乗った感想によると、ガソリンエンジンって力がないという。J58は100馬力、4DR5は80馬力であり、一般的には高回転のガソリンエンジンの方が活発でパワーがあるとされるのが妥当だろう。娘の言っているのはトルクのことであり、低速でトルクを発生するディーゼルに慣らされていたのだろう。
永年付き合っての最大のネックは6,7mという回転半径だった。大して大柄な車でもないのに、何度も切り返したりバックしてみたりするのは余程下手なんだろうと思われたかもしれない。
 本人は昔からの自家用車という認識だが世の位置ずけはクラシカルなワゴンで友人の間では人気があったらしい。娘の友達5人でドライブに行ったが、若い女性ばかりの5人乗りのジープワゴンがどんな絵柄になったのか見てみたかった。
        ( ジープワゴンの夢 )
 四駆はどうでもいいと言いながらもやはり精進湖林道のロックセクション等には行った。下の娘はこの路の悪絶さの恐怖で泣き叫んだ。その壮絶さに魅了された(笑)私は得意になって弟の買ったばかりの60とやはりRN36の新車の(故)浅井さんと連れ立って行った。60の巨体では無理があって溶岩に凹ますしかなかったセクションが痛恨だった。弟も浅井さんもその後CJ5を買ったりダガールラリーへとエスカレートしていった。私はオフロードというよりホビイ感覚で乗りたい方で当初は官庁カラーから脱却したかったが他のマニアの作例のどれもがやり過ぎ感で結局はドレスアップの似合わない資質を感じた。そんな中でもオリジナルにしたくて53ターボのエンジンの新同を買ったが手に負えず断念した。
支離滅裂の願望でホーシング逆付けをあのクラシカルなボディでやりたかったがこれはやらないでよかった。
素材としてのイメージが強すぎるのか決定版といえるジープワゴンの印象が無いのは不思議なことだ。

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 そんな中で挙げるなら二本松で見た(故)長嶋さんのV8換装のJ34(たぶん)である。これはレース車両なんだけど当時の潮流ではW/Bの適性からJ20系に18RとかV8搭載が主流のなかでグリーンのワゴンのレーサーが嬉しかった。
眺め入ったわたしに「こういうのないとつまらんでしょ」と語りかけてきた長嶋さん、加熱気味の尖った価値観のなかで20分ほどのこのクルマへの想いを語り合った時間は、古き良き時代の想い出となった。

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もひとつ未練じみた夢は元祖ジープワゴンたるJ11のこと。。塩山に元は東電車両だった(らしい)J11があるのは知っていたが、見ていたらそこに現れた持ち主が高校の同窓生だった。放置して始末悪いので持ってってくれるなら有難いぐらいの話。浮かんだのは古色蒼然たるこのクルマを苦労してレストア、登録し、最終型のいまのJ36Bと乗り換える図式。。どうにも理解は得られないだろう。。気になりつつ、くすぶりつつ時は過ぎて行った。その後J30クラブの方が引き上げられたというがどうなったのだろう。

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最近気が付いたこと。。モトクロスに凝っていた頃、やはり個性的なマシンが好きだった。これはイギリスのグリーブス。ボトムリンクサスの、まるで農機具のような素朴さと日本車にない骨太感が好きだった。それでいてトルクの太い走りはマウンテンコースで早かった。FISCOで撮ったこの写真の後ろに、ふと見るとジープワゴンがある、しかもこのテールランプは、なんとJ11である。。J11が実用で走っている様を見た人は私を含め少ないだろう。その3ナンバーのJ11が、すぐそこにあったのを、当時20代そこそこの私はグリーブスに気を取られ見落としていたのだ。かえすがえすも迂闊だった。せめて全貌の写真を撮ったならどれだけ貴重なシーンになったことだろう

しかし思い返せばJ11というクルマは私にとってどんな車より魅力的に思える。MB/GPWは勿論、たとえCJ5やスカウト、ブロンコ、LR。。いやもっとフォードGT40やら427、917だ356だの言っても負けないものがある。この価値観はおかしいだろう、でもそう感ずるのだからしょうがない。趣味とは非合理なものだ。
       ( ジープワゴンという存在 )

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(一時はこの体たらく この他にJ58 シープ/ランクル。キャンバストップ/ライトバン。ディーゼル/ガソリン。。総てのバリエーションを満たし悦に入っていた時期)

 ジープワゴンという正室が家にいる安心感から、その間にいろんな側室が通り過ぎて行った。
幌のクルマに憧れたことからジムニー空冷ツイン360cc。OHV6気筒のパトロールG60。4W73、cJ5.j54.BJ42,FJ40...
これらの面々との日々は、ひとえにジープワゴンがある安心感から来たのだと思う。
私のまえにジープワゴンが現われなかったらどうだろう。幌のジープに特別な想いはなかったし、思いがあったのは林業に従事するいすゞTWやGMCトラック、ボンネットバスだったから自分の物にするには程遠い。あのマルーンとツートンはボンネットバスのミニチュアのような想いがあったかも知れない。

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(手塩にかけたプリンス2000GTB
Weber40DCOEの官能的サウンドに酔いドリフターになっていた)

 ジープワゴンに導かれたスパルタンなトラック系への時代がなかったなら、バイクからきた元来のスピードへの憧れの路を辿ったかもしれない。ドリフトに異常に凝っていたことを想えば交通事故というより自爆による事故死ではないだろうか。イメージするのは心酔したポルシェ空冷フラットシックスの澄み切った高域と、唐突に来ると言うスピン特性である。いつかきっとその餌食になったろうと思う。つくずく90㌔も出せば飛ばしてる気になる四駆の世界に導かれたのは幸運だったと思う、その立役者がジープワゴンの、そしてマルーンのえもいわれぬカラーだったのだ。
        ( お別れのとき )
 永年のジープワゴンとのお別れを自分で決断した訳ではない。たぶん自力では出来なかったろう。
私には申し分ない人が36Bを譲って欲しいと言ってきた。都合四台乗ったジープワゴンのなかで、子供とキャンプに行った時代の最も想い出深いJ36を大切に乗っている彼。子供たちが車内にはったシールやらを車の来歴だとして尊重してくれる申し分のなさ。その彼の甥御さんが、叔父さんのジープワゴンを永年見てきて欲しくなったという。こんないい嫁ぎ先があるだろうか。。願ってもない申し出に、「こいつはなんて運のいいクルマなことか」と思った。

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父の生前に 田舎の大工さんに切ってもらった板敷

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ラストの夕暮れに近所をドライブする

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農道からの甲府方面のながめ

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(  寝袋からの月  もの言わぬもの  )

 明日は取りにくるという晩、最後だから車のなかで寝ることにした。
久々に荷台がフラットになる板を敷き詰め毛布を持ち込んだ
慣れ親しんだその眺め、天井のシミの一つ一つ
ぼんやりとした映画館の灯りのような室内灯。。
未だに子供の気配が沁みついている気がするこの佇まい。
折しも月が上がってきた。お別れには申し分のない夜になった。
「永いつきあいだったなあ」と寝袋のなかで想う。
こいつ最後ぐらいなんか言うんじゃねえか。。という気になった。
しかしジープワゴンはコトリとも音を出さなかった。
もの言わぬもの。。その沈黙こそ40年の重みなんだろう。。
最後の最後まで、申し分のない車だったなあ、そう思った。

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キャリアカーに積まれていくのを同胞BJ46が見送る 

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執筆者: kazama

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