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2018年10月18日 23時03分 | カテゴリー: 禁酒操縦

津軽のミッチェル

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(   廃屋   )

飛行機好きの私は旧海軍の偵察機に乗っていた森永さんに惹かれ、山と写真の趣味も合うことから数知れず出かけた。そんなときどんな遠くでも宿をとることは滅多にない、それは束縛に通ずるからだ。

テントと車中泊がメインだが廃棄された作業小屋などに泊まることもあった。じめじめしていたり床が抜けていたりするが大概はなんとかなる、眠ってしまえば一泊3万円のホテルも廃屋も同じことになる。

そんな廃屋でのある夜のことだった。

龍飛岬を目指し新緑の神奈川から森永さんのランクルBJ44Vをぶっとばした。この季節に北上すると桜前線に追い付き、弘前ではまだつぼみ、津軽半島にはいると冬景色に逆戻りしてしまう。

龍飛岬まで近道しようと山道に入るとまだ雪がある。Uターンも億劫だ、何のための40かと強引に突破しようとするとあっけなくスタックした。

薄暗くなり折悪しく雨も降りはじめ二人は憮然として作業をした。やっと脱出した頃にはもう真っ暗でテントを張る気力もない。車中泊しようにも車中はぐちゃぐちや、二人は黙り込んであてもなく走り出した。

まもなく半分壊れかけた小屋がヘッドライトに浮かびあがる。その陰惨さにしばしの沈黙、これを逃したら、という思いに前夜発の疲れも加わり暗黙の合意をする。

木戸をあけるとなんとも陰湿極まりなく、何年も淀んだような空気感に思わず怯んでしまう。こんなことをしていると昨今では白骨だの身体の一部だの、そのうち出くわさないかとの思いがよぎる。

腐った床を避けてグランドシートを敷きランタンをおけばどうやら人のいられる体裁が出来上がる。

ありあわせの食事をすませ、ランタンのささやくような音を聞きながらコーヒーを飲んでいると、さっきまでの不機嫌はどこへやら、なんともいえない幸福感につつまれてくる。

外は雨、それはただの雨ではない、津軽の雨なのだ。

私たちはあばら家で雨をしのいでいる、幸福感の根拠はこうして津軽の雨の夜に浸っていることだ。

ただそれだけである。   それだけで充分である。

(   黒いミッチェル   )

どれくらい眠ったろうか、寝袋のなかで森永さんの恐ろしい叫び声を聞いた。これまでずいぶん不気味な夜をしのいできたが現実的にはなにもなかった。しかしついに何か起きたのだ。

闇のなかのぼんやりあかるい窓からなにかが覗いているのだろうか、、、。それは怨念の貌か般若か、はたまた能面か、、、私は総毛立ち窓を見ることができなかった。

いつしか雨はやんでいたようでかぎりない静寂の闇のなか、かすかな寝息が聞こえた。なにか悪夢にうなされたのだろうか。私はまんじりともせず朝を待った。

ひそやかな灰色がしのびより、やがて陸奥の国にも朝が来た。

私はゆうべの話をきりだすと、森永さんは、やはりそうですかと苦笑した。

太平洋戦争も敗色濃い昭和20年のある日、森永さんは海軍偵察航空隊の操縦員として零式三座水偵(零水)による偵察任務に就いていた。戦況からして単機行動の偵察機は未帰還機が続出する状況になっていた。小笠原線の哨戒任務の帰路、大島近海を飛んでいるときだった。

あと僅かで基地に着き、今日はなんとか無事だったと思いはじめたとき、雲間から不意に双発機が表れた。深いバンクをとり急速に接近し、目前スレスレを全速で横切っていった。その特徴ある下反角はB25ミッチェル爆撃機に相違なかった。柄に似合わぬ運動性を誇示するような飛行は、フロートつきの鈍速な偵察機を完全になめきった行動だった。大きな弧をえがき左後方へそのまま帰っていくのかと思ったがそうではなかった。ミッチェルは再度左旋回をし、グングン距離を詰めてきた。

最初の一撃の曳光弾はかなり距離があった。敵はスピードを殺しきれず唸りを上げて頭上を駆け抜け、追い抜きざまに尾部銃座から撃ってきた。その赤ら顔がはっきり見えた。

それは猫が鼠をもてあそぶような攻撃だった。しかし再び大きく旋回し回り込んでくるミッチェルの体勢には今までと違う切れ味があった。第2撃の照準は正確であり、弾道は数メートルの範囲に集中するようになった。零水は海面スレスレまで降下し、翼端が海面を叩くような回避運動を繰り返すがミッチェルの旋回機銃はどんな体勢からでも曳光弾を送ってくる。三浦半島の突端が見え、浦賀水道から横須賀の湾内に逃げ込めば高射砲陣地がある、生きる術はそれしかない。   、、、射撃が止み、通信員が「敵、退避」と叫ぶ、振り返ると黒いミッチェルが大きく腹を見せて引き返していくところだった。

(    海へ   )

津軽の山で森永さんはその日の夢をみていたのだった。

ふしぎなことにその夢は戦後数十年を経た今になって、鮮明に繰り返すようになり、そのうなされかたは家族を驚かしているという。

空は限りなく澄み、純白な雲は胸をうつ、しかしそこから現れる飛行機は航空ショーで見せるためではなく自分を殺すためにやってくる。美しいフォルムもそのためのものだ。40Lもの排気量をもった2000馬力級のエンジンが唸り、45口径どころか連装の機関砲が自分に照準を合わせに迫ってくる。そのことの恐怖感がどれだけのものなのか、、、戦争を知らず、まして人に命を狙われる経験などしない我々には想像もつかない。

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天気は回復し、北国とはいえ春らしい陽気になった。私たちは日本海の浜辺の草原にすわりコンビ二で買った弁当を広げた。私は写真を撮ろうと車にカメラをとりにいった。

声をかけようとしてその後ろ姿に戸惑った。ベレー帽を被った森永さんは箸を止め、じっと海をみている、その姿には立ち入れないバリアがあった。

 あの日もこんな海だったのだろうか。果てしない洋上で、自分のように敵機に追われ、ついに帰らなかった同僚たちを思っているのだろうか、、、。

二人のうしろの草原にはBJ44Vが待っている。その赤い色はこの寂しげな草原に春を運んで来たようだ。

「   こういうところではさまになるねえ   」   そういう森永さんはこのクルマをすごく気に入っている。

今日はどっかの浜辺の草原で寝たいという、整理すれば車中泊だって充分できるし、、、。

二人とも酒を飲まず、ご馳走にも温泉にもそう願望はないところが相性のよさだ。

そんな二人の貧乏くさい指向とひきかえに、かぎりない行動の自由があったといえる。

その後 私の単身赴任もあってしばらく遠のいていたが 
私からの定年退職の挨拶状を見て森永さんは喜んでいたという
訪ねようかという矢先 きわめて健康だった森永さんは86歳で急死

本人の意向により2013年9月28日 仲間の眠る海に自然葬されました

10日あまりの短い病床のなかの句がありました

七十年   禁酒操縦   花と散る

執筆者: kazama

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