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2018年11月17日 20時43分 | カテゴリー: 総合

 病と秋の空

今となれば あの日さえ懐かしい。。

今日から11月、バイトもあと四日という日

広河原に向かうバスが芦安Pに着き、連絡事項を伝えようと立ち上がるときひどくよろめいた。バスがまだ動いていたのかと思ったがそうではなく、酷い目眩のせいだった。

手すりを放せないほどで、同僚の手前 平静を装ったが内心かなりな不安だった。

 今年のバイトは密度が高く、月に四日ほどの休みしかない状態のなかで、軽い目眩はたまにあった。

発車してから吐き気を伴う気がしたが、思うとそれが更に症状を呼び起こす経験があるので気のせいだとしたが、どうやら本物らしい。

「脳梗塞」。。この言葉が重くしのび寄ってくる。

広河原について、まともに歩けるか心配だったが、按じた程ではなく平静を演じた。

業務はこなせるが、その後の吐き気がひどい。 どこかマヒはないか、やがてきっとマヒがやってくる。そして機能を失うのはどの部位になるのか。。その恐怖と、そして不思議な、蠱惑的な興味深さ。自虐的な、自らの滅びを他人事のように冷酷に見つめる自分。。。

引き算の暗算をしたり,指折り数えを左右一緒とか交互にやってみたり、つま先立ちをしてみたり。。

吐気はますます嵩じてくるが吐くことはできなかった。「救急車」が脳裏をかすめたが業務放棄を伴うことにもなり、とてもその気になれなかった。

還る手段はただひとつ、16時40分の甲府行のバスしかない。バスのなかで吐く事態は避けたいので吐こうと試みたが無理だった。

 やっと終車の時間になって、幸いにして乗客は少なく、バスに乗れた時は、これで生還できると思った。

車内は足元がヒーターが効いて暖かく、還れる安心感に浸った。いつもなら右手の車窓から、暮れてゆく野呂川の谷に魅入られるのだが、目を閉じていた私。美意識とは余裕の産物なのか、私が抱えている究極の問いは、死刑になる朝、青空が美しいと思うだろうか。。そもそも美とは何だろうか。そしてそれがどこまで人を救ってくれるのか。。

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( 夜間病棟 )

 勤務をどうにか無事に終え、細心の注意を払って運転し、八時すぎに人けのない病院の救急窓口を訪ねた。

当直の若い医師は、私の症状を注意深く傾聴し、目の動きや手足の左右連携確認などし、どうやら脳梗塞ではないと判断したようだ。

点滴をしてくれることになり待合室で処置を受けた。ベットがあって、それを見ると痛切に横になりたかった。

「風間さん、横になりたいですか?」それを察したのか女性の看護師が言った。

ベットに横たわったときの安心感ったらなかった。早朝の出勤からあの状態で山中の勤務を終え、ピンチを経て、やっと訪れたこの安堵感。。。

「疲れちゃったんですねぇ。。」点滴をセットしながら、そう言った看護師のことばが胸にしみた。こうやって言葉をかけてくれることが、綿のように疲れた心身に、どれだけの慰めになることだろう。 たとえ医療の有効な手立てがなかったとしても、思いを寄せてくれるだけで心に響く。

 シンとした病棟で、ひとり点滴で横たわる。きょうの事が朝から回想される

山の仕事は楽しくて、つい休みも取らずに働いてきた、疲れは感じなかったが、この齢である。知らず体は正直なのだとおもった。

 静かな病棟で宿直の看護師がふたり、今日の仕事のことやら話している様子がかすかに聞こえる

ときおり笑みを交えるらしいその穏やかな話しぶり。。今日のおわりの充実感

ポタリポタリと浸透する点滴を見つめながら、人の声の心地よさに浸った

( 総合病院 )

 翌日はもう登り調子かと思い、さらに清里の最終日なので出勤したが、案の定甘くなかった。

午後から吐き気とめまいに襲われたのは昨日と同じだった。

三日は休養したが医者は休日のため行けなかった。いくらか好転した気になった四日はもう山の最終日。今年度の見納めだからと未練がましく広河原まで行き、しかもかねてからの願望だった夕暮れの中を、ふらつく足で歩いた。

やはり断崖の際にまで寄る気にはなれなかったが、暮れていく山の寂寥感に身も心も浸ることができた。

 今年度の山が終わった5日。案の定体調はすっかりぶり返して最悪だった。起き上がるのが億劫な床から晴れ上がった空。。バスが走らなくなって、静まりかえった山を想った。

この体調が昨日の無謀な行動の代償だとしても、あの深山幽谷の夕刻に身を置けたことで悔いはなかった。

 総合病院に行き、発症以来の行動と症状から、病院から耳鼻科を指定され、若い女性医師の診察をうけた。すでに何か捕まらないと危ないほどの歩行能力になっていた。

巨大な双眼ルーペを付けられ、瞳の動きを仔細に観察されたが、瞳が静止せず揺れ動いているという。前庭神経炎という病名が付けられたが原因はハッキリせず、過労も関係するのではないかと言われた。念のためCTを撮ることになったが結果は脳に異常はなくホッとした。

そう短期間のうちには治癒しないことを言われ、当初は両刃の剣だがステロイドを投与するから注意点の説明をうけた。投薬は一か月分。こんなにたくさんの薬を処方されたのは初めてだ。

 6~7日は民生委員の研修で福島まで行く予定だったが、当然欠席。10日は準備を重ねてきた地域の福祉行事だが欠席。13日は小学校児童と未来を語り合う行事で、こちらは子供の純真に触れることへの未練はあったがこれも欠席した。

これだけ多くの欠席を重ねたことはかってなかったが、罪悪感めいたものや後悔はまったくなかった。そして晴れた空を眺めながら終日寝巻でダラダラしていても、罪の意識や晴天を無駄にすることに悶々とするといったこともなく、逆に腹の座った安定感があった。これはかってなかった境地であり、「ねばならない」というワードが心に無いのだ。

ドストエフスキーの言う「何かをするのは、しない勇気がないからだ」というシニカルな言葉がうかんだ。病の代償として、この免罪符が得られるのならまんざらでもないと思ったりもした。

 しかしこの論理は間違っているだろう。リスクのある病気がまんざらではない訳がない。病いという状況に至らなければ「ねばならない」という呪縛から逃れられない自分の弱さを、ここでは見つめるべきだろう。

 ( 飛行機雲 )

今日はすでに17日、本来ならば各務ヶ原の航空イベントに向かい、今ごろは車中泊している筈だった。

それだけではない、11月4日で山の仕事がおわったら、山の先輩を訪ねたり、そそられた野反湖の寂しさに浸ったり、冬木立になる前に、お坊山にテントで泊まりたい。。かねてから思っていたそんなプランは、この体調ですべてがフイになった。

でもそれは納得できるもので残念という気にもならないのは不思議な境地だ。

そして部屋の窓から見える日々の明け暮れが素直に、またナイーブに感じられる。

澄んだ青空を西へ行く飛行機雲の美しさに胸がきゅんとなって、思わずパイロットの友人に電話して驚かれた。

またあまりの吐気の悪寒からのがれるため深呼吸を繰り返す自分の息使いが、肺の病気で亡くなった義父のそれにそっくりで、「ああ、こんなに苦しかったのか。。」と胸がつまり、もっとさすってやればよかったと思った。

 秋の日が短くなって、遠くの山から、工事の車両だろうか、仕事を終えて帰ってくる灯りがみえる、帰っての晩酌を楽しみにしているのか。「おつかれさん」という気持ちになれる。

 もし動けなくなったら音楽を聴いて過ごそうと思っていたが、こういうとき心に届くのはファンである重厚なロックではなく、アイルランドの音楽である。その心に沁みる旋律は、国家的な苦難を経た人達によるもので、元気付ける方策もなく、苦難やかなしみに寄り添い合うしかなかったのではないか、そこには私たちの人情などの世界を超えた深さと、スケールの大きさがある。

 めまいは一向に改善するきざしはない、もしこのままだとしても、二度と山へいけなくとも、ましてもう、ウイリーが出来なくとも(笑)トイレには自分で行けるし、この空と山を眺めていければ暮らしていける気がする。。。

まあたぶん、きっと直るはずだと思っているからそう言えるのだろう、ものごとはなってみなければわからない。。

そしてもし、欠席や怠慢を腹を据えていられる自分になったら、それはそれで違う悩みを伴うことだろう(笑)

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執筆者: kazama

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