JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
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2016年10月 の投稿一覧です。
そのような光景を美しく感ずるだろうか。私にはむしろ違和感と見苦しさまで感じてしまう。
たかが給油したぐらいで最敬礼とは大げさすぎるのではないか。寄付されたならともかく,対価としての燃料を提供されたのだから貸し借りはなく、五分五分の関係である。
あらゆる取引がそうであって金のやりとりは物々交換の進化したものと思う。
いつから買う側がお客様と称され神様になったのか、競合する製品の中で選んでくれたお礼ならともかく、へりくだりすぎているように思う。しかもこういう「サービスの品質」が他社との競合部分になり、エスカレートしている。
価格競争がデフレを呼び、薄利ゆえ、さらに多くを売るためのサービス競争がその構造だろうか。
スーパーのレジでさえ慇懃にお辞儀されるのは却って居心地がわるい。困るのはそれでお客はエライのだと思い込み、さらなる要求やクレームをつける。売る側はそこに基準を合わさざるを得ない。
品質面でもクレーマーまで視野に入れて、「食べられません」みたいな余計な表記までしなければならない。それらのすべてにコストがかかり、結局は製品価格に転嫁される。
そんな悪質なクレーマーは社会の敵と言えるが、過剰サービスの過当競争がそれを育てているといえるのではないか。
トイレをきれいに使っていただいてありがとう云々みたいな歪曲した表現はいやらしく、ストレートに汚さないで下さいのがすっきりする。
そんな空々しいバカ丁寧な表現があふれ、社会全体で余計なサービスをしあっている暑苦しさがある。
そしてそれはどっかでストレスに繋がるのではないだろうか。ふんぞり返っているお客の後ろ姿に深々と最敬礼をしたいわけがない。それを強いられる若者にはきっとストレスがたまるだろうし、それを見た子供はやがてそれが当たり前だと思うようになる。
もっとシンプルな、対等でいられる、尊厳を安売りしなくていい世の中にならないだろうか。鬱憤が充満したような世相にはそんな過剰サービスの裏で、その反発が作用している気がする
そんな無駄なことはお互いさまでやめようではないかという機運がいつか持ち上がるだろうと思っていたが、その気配はまったくない。自社だけでそれをしたらえらいことになる(笑)こういうのはクールビズみたいな運動にならないとできない。
ノー残業ディならぬ、ノーサービスディ、、、さばさばして気分いいんではないだろうか
私は対抗意識みたいな軽い見方をしていたが、『正しいもの、あるいは本流を左側に置く』ということがベースだと言う。なぜ正しいものが左なのかと言うのも興味深く、私も左側が居心地がいいが、ここでは本題ではない。
つまり東京ではエスカレータは歩かないのが『正しく』、大阪では歩くのが正しいということになる。そもそもエスカレータは本来何のためか、という部分が違う。東京ではよりオートマチックに楽をするため、大阪ではではより移動の効率を求めるため、ということになり、良く言われる大阪人はせっかちであることと符合する。
私は関西人の言う『関東もん』だか、ここは大阪の流儀が肌に会う。エスカレータの上で「無駄に」立っているのは不合理で私は我慢できない。ただ歩かない人を怠け者だと言うつもりは毛頭なく、むしろ羨ましくもある。このような暗黙の社会規範の違いは少なからずあるようで、それを違和感として受け止めるのではなく、そこには訳というかルーツが必ずある。そこに至れば文化の違いとして納得できるのではないだろうか。ヘイト発言などには全くそういう視点が欠けているように思う。
私は現象よりも、なぜそうなったかの方に興味を持つ性癖がある。今朝のラジオで、初めて疑問だった話題に触れていたので、私の貧乏性と共に紹介した次第
サンバーのオイルレベルを見ようとゲージを抜き、再度差し込もうとすると入らない。
なんとレベルゲージの先が折れていて、先端がガイドの通路に残っているらしい。
金属疲労といってもそんなに繰り返したわけもなく、負荷もかからないのになぜだろう。
さて取ろうとしても細いチューブの奥深く方策がない。折れた先を作動部分が巻き込まないか気になる。
レベルゲージが折れるなんて聞いたことない。不本意ながらオイルパンを外す大事となり除去した。
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以前裏の畑の岩穴に入る小狐を目撃し、深夜に時折狐の声を聞いていた
10月8日の早朝に裏のぶどう園で戯れる姿を見ることができた、子狐が成長したのだろうか
狐は野生の動物の中でも別格の神秘性を感ずる。山でもそう見ることはできない
すぐ近くの畑で共に生活していることがとても嬉しく充実感がある
私は農家の出身だから、労働とは苦役であり、食料生産の肉体労働という概念がある。
小学校の時代は農繁休業というのがあって取り入れ時期など一週間は学校が休みになり、子供の手といえど労働力として駆り出された。
私はそれが嫌だった、農耕の荷役などをする牛もいて子供以上に大切にされていた。
そんなことを書き出したらきりがなく、日本のことではないように思われるだろう。
農家で育まれた感性を持つ人は少数派で田舎者のように見なされ、都会に出てからは発言権がないことを感じていたが、それを裏ずけるような減少ぶりである。
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ひきこもりというと若者が学校にいけないとか、若者世代の社会現象というイメージがある。しかし手が打てないまま時間は経過し、引きこもりも高齢化している。
内閣府の発表はなんのことはない、引きこもり年齢を39歳までと捉え、40を超えた該当者が外れただけである。
このような調査になんの意味があるだろう。意味がないだけでなく、数字だけが独り歩きし経済の活況による成果だとでもいいそうである。
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