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2018年04月04日 08時20分 | カテゴリー: 総合

2018 桜の想い出 勝頼ゆかりの慈眼寺

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今の笛吹市にある慈眼寺 天正十年(1582)の武田家滅亡のさい

勝頼が遺品と回向料を預けたという

ここから10Kmほど東方の田野にて最後の合戦のうえ16歳の息子信勝

 19歳の北条夫人とともに自害したのは旧暦3月11日

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父信玄の威光を時代の流れから支えきれなかった勝頼の無念

諏訪四郎勝頼が諸事情から家督を継ぐことになったがその複雑さが偲ばれる

戦国武将で家族が共に自害して果てた例があるのだろうか,その哀れさが際立つ

最期の僅かな時間に息子の信勝に家督を継ぎ武田家最後の頭領は信勝となる

生まれも薄い立場だった勝頼が 運命を共にする息子への愛だったのか

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短い盛りを過ぎた桜が散り始め 傾いた日にハラハラと地に落ちる

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峡東地方といわれる甲府盆地の東の峡谷に日川が流れ

古くから三日血川と言われてきた

勝頼一行が最後の戦に敗れ その血が三日にわたり川の流れを染めた由来という

その最期の模様は諸説あり 息子の信勝の戦死に心折れ、討死したともいわれる

その狭い谷は武田家滅亡の慟哭の谷であり 県民の哀惜の念に満ちている

慈眼寺に遺品と回向料を託した勝頼が この橋を渡り

春浅い路をどんな想いで東へむかったのだろうか

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執筆者: kazama

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