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2019年05月23日 09時02分 | カテゴリー: 総合

神は数学

 神の言葉は数学で書かれている.... アイザック.ニュートン

  私は数学が苦手だった。つまずくとその先に進めなくなって、あれほど厄介な学問はない。

しかし、だからこそなのか、私は数学というものを固く信じている。多分それは私だけではなく数学の解を疑う人はいないだろう。どんな偉人の言葉でも、それを疑う人がゼロとまではいかない。
このことは自然現象に近いものがあり、すべての人が受け容れざるを得ない説得力がある。苦労した英語でも、いにしえの古典でも歴史でも、それは人間が産みだしたものである。しかし、こと数学に関してだけは人間が作り出したものではなく、この世の原理原則として人類以前からあったのではないか。
そこには感情の入り込む余地がない。そのゆるぎない、究極の論理を数学と呼び、その発展は創り出すものではなく、探し出し辿り着こうとしているのだと思う。
 そして不思議なことに、その発見は物質的なことではない。
どこか奥地へ行けばその公式のような構造物があるわけではなく、実体と言えるものはない。そこに物質との関りはなく、物質が無くても数学は存在するという見地に至る。感情や歴史や慣習とか美醜とか、あらゆる雑多な要素をはぎ取って、魚の骨のように残った構造物が数学なのだと思う。

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 しかし太古において人間が数学という概念を得るきっかけは物質からだったろう。
一本の薪をもう一本持ってくれば二本になるという体験であり,
また一本の長い棒(180度)を内側に二度曲げた三角形の内角の和やピタゴラスの定理も体験からではないか。物質の集まり方や変化の仕方から、ある普遍的な法則によって移動や変化をしていることに気が付いた。宇宙以前からその法則はあって、それによって宇宙は形成されたと言える。
 唯物論の私は、物質がなければ何も起こらない、霊魂をはじめ、時間さえないと思っている。 時間とは、一定の寿命しかない生物が、それを意識しながらの見え方にすぎない。このことは物質と生物との境界であり、永遠の興味深いテーマに思える。
そんな私が、唯一の例外として、物質以前に数学の法則はあったと信ずるのはおかしなことだ。いったいなんの根拠があって、これほどに盲信するに至ったのか。。 ない筈がない。この頑迷な想い自体が不思議である。そのことは自分でもわからない。
この世の果てまでも唯一無二の原理原則として存在する。
それはあたかも無神論者の私にとって神にあたる存在になっている。
神たる数学が宇宙の果てまでも貫いている、果たしてそうだろうか。 そうとしか思えないことが、もしかして人間,いや私の知性の限界なのかもしれない。

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執筆者: kazama

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