JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
お盆の終わった頃に、けだるさとないまぜになったような寂しさがしのび寄る
その風情は初秋や晩秋、初冬のように歴然としたものではなく、極めて微妙な繊細さがある
写真には撮れない微妙さはしかし、それゆえ高尚というか重厚なものを感ずる
単身赴任のころ、静岡から神奈川への帰路に、
よく富士の裾野を走る御殿場線に乗った。
ちょうど今頃だったろうか。線路わきの緩い上り坂の、いくらか草いきれが残る道を,学校帰りの女高生がふたり、一人は自転車を引いて、一人は歩いて行く。
そのふたりの親しげな関係が伺われ、何を語りあうのだろうか。。
私がこの光景を見たのは、数秒間のことである。
何ということもない平凡なシーン。
この二人にとっても、どうということもない日常でしかないだろう。
しかし私にとっての、夏のおわりの決定的な、忘れられない残像になっている。
たぶんそれは、この二人の高校生の晩夏が、大人になって、かけがえのないものとして、振り返るときがくるだろうことを、経験則として知っているからではないか。
晩夏という、ちょっと物憂いような季節感。こういう時の事象の見え方が好きだ。
もしこれを、たまたまカメラで撮っていたなら、ここまでの印象が残ったろうか。
手にするプリントなり画像は現実のものとして、気に入らない要素も写ってしまう。
たぶん写真がなかったからこそ、ここまで完璧な絵柄として構成され記憶されたのだ。
このジレンマは過去からあって、すばらしい光景を目にしたとき、写真に残さない方が心には残ることが分かっていても、
つい撮らずにはいられない自分がいる。
フィルム時代の山の写真には特にそれがあった。
山の情感に心満たされ下山する。待ち遠しい現像が上がってポジを見た途端、それまで心を満たしていたモノが霧散して、つまらない目前のポジに集約されてしまう。
そのことの虚しさを繰り返すたびに、いっそカメラは持たずに、心に刻むことにしようと思ったが,元来のカメラ好きなこともあって出来なかった。
妄想と現実にはループ的な相関関係があって、美しさにおいて妄想に敵う現実はなく、
また現実を前にして、打ち砕かれない妄想もない。。。これも相対性理論だろうかw
数知れず通った伊勢原から山梨への 秋山の谷あい
老舗のシェルのGSは北陸にも多く 私の重要な被写体になったw
執筆者: kazama
This post was displayed 756 times.