JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
9月18日は忙しく、また充実した日だった。
鉄道の当日期限のチケットを貰ったので万障繰り合わせ小海線に乗るつもりでいたが、民生委員として係わった方の納骨の儀になり諦めた。9時に市役所に行くと会議を欠席したツケもあって、休みの今日中に地域の高齢者への敬老祝金と小学生からの手紙をお届けしなければならないことが重なった。
小海線がフイニなった愚痴を友人に漏らすと特急を交えたプランを送ってきた。勝沼発1318。。待てよ納骨の儀が11時だから、それまでに敬老の訪問を済ませば可能性もある。
そうなれば元来がケチでチケットを無駄にしたくない性分が動きだす。
どんな書家でも敵わない無垢な字体 しかし大人になると失うもの
( 小淵沢から佐久へ )
勝沼1318と思ったが急げば1215に乗れる。あたふたと急ぎ駐車場に軽トラを止め一分前ぎりぎりにホームに登った。塩山への緩い下りから左へターンすると右手に郷里の山。電車から眺めると18歳で上京した日が思い浮かぶ、鉄路の響きに時を経て、この老境に山は変わらない。
列車からの韮崎の街 いつも通る赤い鳥居が見える
甲府からは特急あずさに指定席で乗って小淵沢へ、約25分の乗車で1460は高い。小淵沢では4分で小海線に接続で忙しい。
左側ボックスシートに落ち着いて雲に包まれた甲斐駒、鳳凰山塊。果樹地帯の県東部にはない、黄色くなった稲穂の田んぼを見ながら緩く登るキハ110の320Psのディーゼルサウンド。。
ただ景色を眺めているだけでいいこの贅沢さ。八ヶ岳南麓の高原を越え、佐久地方から千曲源流を小諸に至るこの行程。その類まれなユニークさをもっと堪能すればよかったと思う。
いつも車で越える踏切を列車で通過し清里に着く、観光案内所と職場のバスターミナルが後ろになるのを列車内から見るのは自分の日常を客観視するようなもので、そのことの世の中のポジションが見える。列車からの視点というのは自家用車からの個人的視点より公共性を帯びている(笑)
あんがい地元の方の利用が多い 清里駅にはさすがに降りてゆく
清里観光案内所とバスターミナルを列車から見る新鮮さ(笑)
移動している視点から静止している物を見るのは相対性理論じみていて、固定した暮らしというものの意味が見えてくる。窓からステテコのおっさんが退屈そうに新聞を広げているのを
「ああ、なんていい時間なんだろう」と思えたりする。そんな時間は家に帰れば自分にもいくらでもあるのだ。旅の真髄は日常の見直しにある。それも不安定な漂泊じみていればより埋没していた日常の価値が見える。ものごとは立場によって見え方が違う。そのどれが正解というものではなく、感じ方、見え方が総てであって、生物である以上、その「偏見」から逃れることはできない。
野辺山の最高地点から高原野菜の畑のなかを下り始める。佐久という地名が始まると千曲川の源流、この水が目指すのは信濃川であり、はるばる日本海なのだと想う。明るく賑やかな太平洋に辿り着くのではなく、北や西の、深遠な日本海をめざすのは、なんと寂しい旅路なのかと想う。
川面を眺めての想いひとつ、分水嶺を分けて、ひとの価値観は微妙な違いをもたらすのではないだろうか。
わくらばを 今日もうかべて 街の谷 川は流れる
( 小雨降る佐久海の口 )
終点の小諸まで行って「スナックりりー」の看板を一目見て帰ろうと思ったが、それより途中駅で下車し、見知らぬ街を歩いてみたくなった。「中込」という比較的大きな駅で折り返した。ちょうど下校時刻にあたるのか高校生が乗ってくる。彼らが乗ってくることの生活感は比類がない(笑)
降りて線路を渡り 帰ってゆく小学生
この一期一会 あの子の人生に 幸あれと想う
これから千曲川沿いのどこかの街へ帰るのだろうか、その屈託のない若さと、その人生における僅かなモラトリアムなとき、ふるさとで過ごす大切な時間。彼らが巣立ったのち、再びこの小海線に乗ってくることがあるだろうかと想う。
踏切は目的の交差するところ なぜか山の先輩と通った日を想いだす
東南アジアの若者が3人 この道を帰ってゆく
「佐久海ノ口」という、魅力的な名前に惹かれ降りてみようと思った。どこが海ノ口というのか。。内陸で海とか島とかいう地名を見るとロマンを感ずる。駅にさしかかると折あしく雨になった。時間は1630で薄暗く夕刻がせまる。次の小淵沢行は1752でかなり間がある。その間を小雨のこの地でどう過ごすのか。。その想いに怯み、つい降りることはなかった。
佐久海ノ口が後ろになってゆく。。もうこういう機会は訪れないだろう。無難な消極策はこの場での賢明な判断ではあったろう。過去にこういう経験は何度かした。佐渡での路線バスの乗り継ぎで、ベンチひとつ、自販機ひとつもない田んぼでの二時間。何もすることがない、しようもない、日本海に面した田んぼでぶらぶらするしかなかった時間。また砂の器の舞台の駅、山陰の亀嵩を訪ねた日、無人駅周辺の霧深いあてもない二時間。。 ともに他に類例のない、この時空間は振り返って珠玉のようなものとして感じらる。それは無計画なゆえ、偶然がくれた異次元だった。
もし佐久海ノ口で降り立ったらどうだったろう。小雨降る見知らぬ街の灯ともしごろ。その言葉だけでうっとりする(笑) つい無難な選択をするのは仕方なかったとはいえ、おそらく胸に刻み込まれる財産になったろう。変わった行動は必ず得るものがある。逃がした魚は大きい。
夕暮れせまる 車窓の野辺山高原
夕霧の野辺山高原を走るジーゼルの鼓動と 鉄路の音
ガランとした車内 さながらジョバンニの心持ちだった。
日本最高所の野辺山駅は霧のなか しばらく停車の静寂
甲斐小泉を過ぎると 灯ともしごろの美しい田園
小淵沢に着くころは頃合いの時刻になった。
中央線塩山行の列車の二両目は私独りで発車した。
途中で三人の女子高生が乗ってきた、部活の同じ仲間だろうか、その会話のたわいもなさと、自然な親密さがなんとも心地よい。この見え方も電車ならではのものだろうか。
長々と書いてきたが、これがたった半日の感想であることに驚く、これが自家用車だったり半日のハイキングだったら、これだけの感想になったろうか。そこには移動という要素があった気がする。速度は時間を間延びさせる(笑)相対性理論のその法則が、列車のスピードで当てはまるのか。。ふとそのことが当てはまっているのではと思った。おそらく感性も物理法則の支配下にあるだろう(笑)時間が速度の影響を受けることはどの速度域でも有りうるのだ、ただ小さすぎて計測できない。限りなくゼロに近いが、しかしゼロではない。科学の発展は決定論から量子力学の確率論へと移行している。私の鋭敏な感性はそれを感じ取っている訳だ(笑)
ふと今日の午前に、みさおさんを納骨したときの、石蓋の重さが蘇った。
みんな今日の高校生のような若さがあって、子供の手紙を喜んだ高齢になり、そして厳かな死を迎えるのだ。
「川の流れは絶えずして、同じ水に非ず」。。またこの感想になるのだけれど。このことがずっとくり返されてきた。
執筆者: kazama
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