2024年04月23日 21時55分 | カテゴリー: 総合
雑念帖
茂みの中から白無垢の女が。。
この得体の知れない不気味さはなんだろう
実態は春の風に吹かれた 農業用のビニール
無機な物質による目的も意味も また主体もない造形は
それゆえに どんな想像や なた妄想を乗せることができる
美もアートも 自然という容れ物に敵わないのは
生身には真似のできない その意図のなさだと想う
( 金閣寺 挿絵より )
同級生
小学校で2学年に亘り隣だった苑子さん。
勉強ができ物静かで絵が上手く別格だった。
朝礼のとき貧血で倒れ,その美しさが脳裏に残っている。
私が19才のときバイクで複雑骨折し2ヶ月入院したさい、
お見舞いに来てくれ『としおくん』と呼ばれたのが沁みた。
以来会ってない彼女はマンガ家になった。
『北村夏』というペンネームは,
ふるさと北村の夏ということだろう,さすがだと思う。
今は生家で暮らしてるらしい。会ってみたい想いもあるが,
19才の残像がお互い老境に上書きされるのも切ない(^^)
‥ 薬物効果‥
午後早めに退社する時,上司が体裁のいい言葉をかけてきた。
私はそれが気に入らなくて露骨な不快感を表し退社した…
そこで目が覚めた夢だったが,何か問題を抱えている訳でもない。
夢は心の深層と思うが思い当たるものがない。
内面は気難しい方だが私は不快感を秘めて他人には出さない方だ。
自分の新たな一面を垣間見るような夢をなぜ見たのか…
思い当たるのは帯状疱疹の薬を飲んで寝たことだ…
薬物にはいろんな副作用があって心にも及ぶのだろうか。
アーティストがドラックに走るのは心の深層まで引き出されるからか。
現役時代に一度も見せたこともない態度を夢の中で演ずるとは‥
夢は劇場であり宝庫だと思う。
… 年寄りの物忘れ …
①軽トラで出がけにゴミ出しを頼まれる。
最終目的地に到着し,しまった出すの忘れた。
と荷台を見るとゴミは無く,どうやら置き場に置いてきたようだ。
②外出から帰ると玄関が開いている。はて施錠した筈だが…
施錠をしたのを忘れ更に施錠‥マイナスの自乗はプラス(^^)
つまり解錠して外出した訳になる
このところこんなケースが目立つ。
年寄りになって,もの忘れの傾向は,
『することを忘れる』のではなく,
『したことを』忘れるようだ。
『することを忘れる』は若い人でもありそうだ。
しかし『したことを忘れる』は,より重篤な症状と言える。
したことが脳に刻み込まれないのだから『食事をしたことを忘れる』
『同じ話を何度もする』に通ずる。
おそらく『すること』と『したこと』は脳の違う部位が関わるのではないだろうか。 こんな風に老いの観察を内側からするのは発見があり愉しくもある(^^)
‥ 子供とチャットGPT …
♪〜 あおい空〜 とラジオが唄い始めたら双子が
『白い雲!』と間髪を入れず言う。
初めての山崎ハコの歌はその通り流れてゆく‥
『ほらね』と双子チャットGPTは得意げだ。
最近この季節の新緑と青空に恋焦がれる。
若い時は圧倒的に秋の愁いを好んだのに…
この時は北陸の山の帰路、九頭竜の源流のめくるめく5月。
この明るさとあの稜線への憧れに胸がキュンとなる。
この感情は小学生のランドセル姿にも感ずる。
若い時は何も感じなかったのにこの変化は
自分が失った若さが見えるからではないか。
10代の教習生の送迎のさい、目前の横断歩道を
ランドセルの小学生たちが通る
『小学生がたまらなく見えるけど,どう?』と試しに聴いてみる
『うーん,なんも感じないですけどね』
無理もない,つい数年前の自分たちの姿でもあるわけで…
年取るとモノの見え方って変わるもんだよと言っておいた。
… 2011/3/11 東日本大震災の追悼 …
3/10の空襲では、その5倍の 10万を超える犠牲者
しかも一人の司令官の意思で避けられた人災
そのコントラストの なんと愚かなことか
そして今もトルコの自然災害の苦難の一方で
ウクライナへの侵略戦争。。この不条理を
止めることの出来ない人間社会の業に愕然とする
2011/3 常磐線新地駅
折からの春風と その静寂が哀しかった
甲府の戦前からのデパートが閉店した。
子供のころ甲府は大都会で岡島デパートはその象徴だった。父に連れられ屋上の観覧車へ乗った遠い日が愛おしい。甲府空襲にも耐えたビルが解体するのは皆が一様に寂しいと言う。しかしそれが消費活動になったかというとスーパーだったりAmazonという実態。
同様にローカル鉄道が廃線となると皆が愛惜の念で最終便を見送る。しかしだからと言って利用した訳もなく専らクルマである。
山村が良いとは言っても風景としてであってそこで生活にまでは至らない。アンティークな風景の中で近代的な消費生活をという願望は矛盾している。個人的にはモノを大切にと言いながら自社の商品は代替を勧め消費を煽る。自らの理念と行動が一致しない矛盾を私を含め誰もが抱えているのが現代ではないだろうか。それが根底で現代人のストレスになってる気もする。
猟銃
降雪の翌朝 新雪を求め蜂城山へ登った
降りに向かうと人の気配 眼光鋭く背に鈍く光る猟銃があった
「登りの足跡のみだから上に居るかと注意していた」という
雪の山に足跡を追いつめる 狩人の感性なのだろう
野生の厳しい冬に、自らの足跡を追ってくる人の怖さを思う
その古来からの人間の営みに 冷酷という言葉は当たらない
幸いにして(笑)その後 山で銃声はしなかった
変態盗撮犯…
帰宅すると警察を名乗る2人が来たという。もしや警察を装う強盗の下見かと(貧民住宅に?)笛吹警察に電話した。
すると本物の刑事2人が来た。
しかも私への嫌疑は湘南Noのサンバーが小学生の下校を撮るのが不審だと通報があった件。確かに撮ったことがあって湘南No.も怪しまれたか…
自らの老境と引き換えにランドセルの下校シーンが可愛くて目立たぬ様に撮ったつもりだったが…上がって貰い,折あしくカメラが5台もあるテーブルで顛末を書く羽目になった。さすが刑事,ただならぬカメラの有様に余罪を疑い,メモリーカードの画像の公開を暗に求める。目の前で下校シーンは削除した。PCやハードディスク,スマホはどうかまで及ぶのはさすがである。クラウドにまで及ばなかったのは信用されたか…
梨花に冠を正さず…変態気味の独り遊びを気取るのも程々にしないと。
感想は日本の警察への信頼である。当該案件だけではなく余罪を疑うのは必要な感性だろう。この物騒な世の中で自衛と共に警察の仕事は重い。
… とまぁ犯人の分際で偉そうに(^^)
【取調室にて】
行方不明者の事情聴取で個室に案内された。
後から入りドアを閉めると
『開けといて下さい』と言う
閉めるのが通例だと思うが
何か警察ならではの習慣があるのか…
密室での自白強要などによる冤罪防止?
被疑者経験からの発想(^^)だろうか…
同居人に言うと『コロナだからでしょ』
なるほどシンプルだ,かもしれん。
あの訳を聞いてみようと思う。
ベテルギウスは?!
午前3時ごろオリオンが見えていたので枕からスマホで撮った。
朝に画像を見たらベテルギウス(左上の星)がない!。赤色巨星で超新星爆発が近いと聞いていたから遂に!(^^)と思ったが,ならば大ニュースになるだろう。
何のことはない家の影に隠れていただけの話。仮にもしそうだとしても実際は550年前の出来事である。宇宙は過去の姿しか見れない。現在は赤色超巨星というが,これが太陽と置き換れば木星軌道まで呑み込む巨大さだという。
窓枠から星を見ていると西へ移動する動きが解る。24時間の周期は案外速い。
iPhoneの手持ちで2秒ほどの露出。それでブレずにこの写りには恐れ入る。
クオリア‥
私はガート下のような所で一抱え程の荷物を持った暮らしをしていた。
そこから移動したいのだが私には靴がなく,石ころなどが痛くてどこにも移動できない。
そこに4人組ぐらいの男たちが私の荷物を奪いにくる,それを奪われたら生きていけない…
そこで目が覚めて全てから解放された。しかし4人組の恐怖感は体感のようなリアリティがあり、これが脳科学で言うクオリアなのか,夢はいつも体感的な、内なる感触がある。
しかし靴がないだけで満足に移動できない生物なんて人間だけである,他の生物は例外なく『裸足』である。
ガート下は内側から施錠するドアもない,隣近所の煩わしさは守り合うことでもあることに気がつく。
人間の生態はなんと過保護なことか…夢がいつも啓示に満ちていることに驚く
道路大国?
地方鉄道の窮状。乗客1000人未満を切捨て検討。小海線もランクされる。
国交省の22年度の鉄道予算1千億(殆どが新幹線費用)に対し同道路予算は20倍の二兆一千億…
30年に亘り経済も賃銀も伸び悩みの中で道路だけは林道に至るまで舗装され,僅かなカーブを直線にするため橋をかけトンネルを掘り,数分の時間短縮を図る。至る処にバイパスや高速道路のような道路を建設した。これだけ道路が整備された国があるだろうか。国土の有効面積と道路面積の比率があれば世界のトップクラスではないか。道路の必要性云々より道路建設事業が欲しかった結果の今日の姿。。
これだけの国費を北欧のような教育無償化に回したらどんだけ活きたかと想う。
そして数十年後に膨大な維持管理の負担が、少子化の世代に重くのしかかる… 国家100年の計とか、任期のある人種にはむしろ無いのではと思う。
人生初の110番‥
薄暗くなるころ,バイトから帰ると隣の奥さんが洗濯物を取り込んでくれていた。桃の共選所にバイクで通っている同居人はいつもなら四時には帰っている。
『どうかした?』とラインをしても既読にならない。電話しても出ない‥桃の出荷が集中かと車で5分程の共選所に行って見ると静まり返っている。はて,どうしたのかと不安がよぎる。所用なら音信不通はおかしい。
もしやバイクの事故,或いは急性疾患… 農道から転落
不安は高まるばかり…事は急を要する いささか迷ったが110番すると,「急行するので奥さんの写真を用意しておくように」との事。事態は一歩進み緊迫の度合いを加える。
落ち着けと言い聞かし、もう一度電話すると
『よその共選所の応援でいま帰る』との声‥ 全てはリセットされ,オールクリアとなった。
『110番しちゃったよ』
『❗️バッカじゃないの』
慌てて再度110番し無事を報告すると『事実を確認しないと当件は終われない』とパトカーが来た。そこへ遅れて同居人の帰宅。2人でひたすら平身低頭,私への苦言を交える同居人に若い警官は『ご主人は正解です,遅れが致命的になりますから』と私の側に立ってくれる。近所に目立たぬよう玄関を閉めて話す配慮まで申し分ない対応ぶり。辞退するが無理矢理リポビタンDをお詫びに任務完了してもらった。
それにしても私の狼狽ぶりは独り残された生活能力のなさが危機感を煽ったと思う。
警察は弁護してくれたが本署に帰れば
『8時半に女房が帰らないと110番する赤子のような亭主』になったかと危惧されるが,たしかに文字にすればそうなる。
1人の死は悲劇だが 数100万の死は統計上の数値に過ぎない …スターリン
密約、密告から無数の粛清 ヒットラーは狂人だがスターリンは陰湿で狡猾。師と仰ぐプーチンは,現代という時代背景にして更に理解できない。
ドストエフスキーにハマった時期があった。
『罪と罰』の高利貸し殺人のラスコリー二コフの
『目的が正しければ手段の全てが肯定される』という思想。
現在に至り一国の外相までも平然と嘘をつく体質を見るにつけ,嘘は戦略であり罪に当たらない倫理感と思う。
『悪霊』の主人公スタヴローギンの,その美貌と卑劣には、ふと惹かれた。この侵攻の卑劣さの極は、もしや戦略なのか。
なぜそうなったのか‥
この『病める大国』が辿ってきた2700万と言われる戦死者の歴史,その舞台となった厳しい国土を想う。
それは『おしん』のように正直に苦難を耐えれば、やがて人生の糧になる‥という私達の価値観では及ばない厳しさかも知れない。
文中のキリーロフの言葉『究極の良識と自己管理は自死である』に従いスタヴローギンは廃屋で自殺する
『スタヴローギンの告白』はロシアそのものの告白だろうか
炎628…若い時に見たロシア映画
ロシアのNo.628村を襲ったドイツ軍によるジェノサイド。
銃撃は放牧牛にまで及び,少年は牛の陰で銃撃を避ける。
牛は痙攣し絶命する。凄惨極まるリアリティに打ちひしがれた。
主役の少年のラストシーン…
ヒットラーの肖像を小銃で撃つと青年将校になる,更に撃つと学生,
それを撃つとヒットラーは母に抱かれた幼児となる。
幼児を撃てない人道的なシーンで終わるエンディングに
せめても救われた重厚な作品だった。
今となって、この少年にプーチンを重ねる。
この映画はロシアのトラウマだろうか…しかし悲劇は繰り返す。
虐待のトラウマは自らも虐待をする様に,負の遺産となる。
この映画のラストの如く,プーチンは人道に辿り着いて欲しい
‥ ボーッと生きてんじゃねえよ ‥
チコちゃんネタも尽きたか?
『ハマグリを炙るとき,実が上に寄るのはナゼか?』‥ まさかとは思ったが
『熱いから〜』と平然と正解をのたまった。調理は仕方ないとして仮にも生き物を焼殺する場面をネタにするとは呆れた。『命を戴く』とかキレイ言を言うなと言いたい。食物連鎖の頂点にいる人間にはそこを慮ることを教育の一環にすべきではないか。増してNHKが配慮の片鱗もなく他愛のないネタにするとは…
農家は生き物の生死に直面しますからねぇ。蚕影山信仰。鳥獣供養。害虫駆除さえ虫送りの供養を幼い頃から見てきましたから違和感でした。
昨今の生き物が単なる食材でしかない感性には世の軽薄さを感じます。
だいじょうぶ 温めてもらいなさい ず~っとね
そう この布団には40年以上温めてもらった。
千葉の柏時代からず~っと。この布団の中だけは素の自分に戻り
ここから社会への演技者として出て行った
人生のなかでいちばん寛ぎ、大切な時間をすごした布団を
今朝の粗大ごみとして出した。これまで保護された大切な布団が
うず高い廃棄物のなかに、呑み込まれていくさまは正視できなかった
モノとの哀惜な別れは これもアミニズムだろうか
かっては針供養とか聞いたが ふとん供養は聞いたことない
ストック入門
登山をやっていた頃からストックを毛嫌いしていた。道のない山や岩っぽい箇所で邪魔なことったらない。中高年が増えた頃から皆んな使い始め登山道がグズグズになる。20人ぐらいの大パーティだとバチバチとストックの音が近づいてくる嫌悪感(^^) しかし骨折し,20時間かけてストック頼りに生還した話。猟師の熊に遭ったとき手ぶらは良くない話など,気になり始めていたのもあって日課の山に使ってみた。いつもの40分を37分くらいで速い,田中陽希みたいにストックを前に大きなストライドで登るカッコ良さを真似てみた。落葉や残雪で滑り易い降りも気を良くしていたら思い切り転倒した。たぶん千回を超え,知り尽くした道で予期せぬスリップ。これにはショックを受けた。山はクライミングを含め足で登るのがセオリーだ。ストックに頼ると及び腰で脚腰が疎かになるという持論を自ら実証したことになった。ストックを握って転倒したものだから手の防御も悪かったらしく大きく腫れた。自らに『ほれみろ』って感じ。そういえば田中陽希もストックの右手を骨折したっけ。
週明けを待って整形外科のレントゲンで骨折なしとのこと。山での怪我で病院は富士山での凍傷以来だ,それがストックに由来するとは,やはりくそったれだ(^^)
しかも予後が悪く半月になるというのに右手が凍えたような感じで動かない。下手な字が余計まずくなり,もしやこのままか‥老人が骨折を期に老化するメカニズムがこれかと思う。痛いから動かさずに余計退化するのだ,たぶんリハビリが必要なのだろう。整形外科を再訪と思ったがこのオミクロン様では行く気にもなれない。
. ボクと言えない私 ...
自分のことを、「ボク」という男性がいい、といっていた女性がいた。
なるほど「ボク」という響きは魅力的なんだろう。男性の自称には、ボク、俺、私の三つがあるが女性には「私」しかないのは社会進出の少ない男尊女卑社会の名残だろうか。
私は「ボク」という時代がなかった。ボクというのは都会の子供のことで、山村のガキがボクなんていうと仲間外れになりそうな空気があった。
大人になっての「私」は汎用性と無難さと丁寧さもあって、公用には重宝だった。しかし「私」は他人に対しての立場を表しているにすぎない。公用にはいいが自分としての意思表示には少し弱いし魅力がない。
最近は年配の方がボクと言っていると、その育ちの良さそうなニュアンスに惹かれる。でもいまさら言えそうもないし、仕方がないから「俺」というしかない。「俺」というタイプでもないと思うが、「私」というお行儀のいい殻を脱ぎ捨てたい思いもある。
「ボク」という清潔感、「俺」という男らしさ。そのどちらにも属さない中途半端さでここまできた。「私」という言い方はその象徴だった気がする。
でも、はたして「俺」と言い切れるだろうか(笑)
北岳から降りてきて最終バスに乗った若者が芦安で降り、
ペタッと地べたに座りカッパを着込みながら
「これからバイクで川崎まで帰る、どっか泊まりたいですけどね」
とぼやいていた。駐車場にシルバーのカブがポツンと置いてある
一般道だから4~5時間もかかるだろうか。
雨の夜道を黙々と走る彼を想う
「かっこいいなあ」 苦しいことを傍から見るとそう見える
( 北岳大盛況 )
好天に恵まれた始発バス。密にならぬよう二台は無駄を覚悟の上で5台のバス体制。しかし予測を遥かに超えて5台とも座れない超満員となった。山は解放系でもその経路で混雑してしまう。車内は皆が沈黙を守り異様なほど。諸注意にも頷いて反応するマナーはさすが登山者と思う。
しかしその良識を持ってしてこの人流。
バスに無駄は無かったが残るこの課題
コロナとは何だろう
政府の自粛要請は良識に響かず,反発を生む矛盾を感ずる。
様々な意識と要素の大きな集合は,数の増大につれ科学的確率に収束するという『大数の法則』に支配される。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大数の法則 …
( ゼロの盲点 )
『50人の満員バスの日を50人が知っているが,
乗客ゼロの雨の日のことは誰も知らない』
一昨年の未だコロナもない超満員の日だった。車掌の私の背後に立っていた登山者が『儲かりますねえ(^^)』と言う。私が『空で走る日がいくらでもありますから』と言うと『あ,そうか』と呑み込んでくれた。更にコロナの今は密を避けるため,バスの台数を増やすしかない。ゼロが見えないのはシンプルな,埋没している事実…
これが多数決社会である民主主義の盲点ではないか。その多数派の選択で決まった社会が今の姿であり,結果として多くの人達が選ぶ凡庸さと退屈さがあるのは無理からぬ構造ではある。他に方法も思い浮かばないが,このことは知っておかないといけない盲点ではないかと想う。
共産圏の製品に資本主義の手垢にまみれていない素朴さが残っていたり,映画や芸術に興行的成功を狙ってないシリアスな重厚さがあるのは,単に私の偏屈との相性なんだろうか(^^)
( エンゲル係数 )
エンゲル係数は生活費に占める飲食費の比で貧しさの指標だった。
今は食が豊かになり意味合いが豊かさの指標に変わった気がする。
でも飲み食いの経費が多いのはやはり心の貧しさを表していないか‥
食うこと以外に知識や労力を使えるのが人間の特権ではないか。。
( 飲酒運転防止システム )
6/30 アルコールを検知したらイグニッションが点火しない,或いは噴射ポンプが作動しないメカにしたらどうだろう。酒を飲まない人間の暴言だろうか。それは自動ブレーキと大して変わらない気がする。安全を人間の自制心に委ねるのではなく,確固たるメカニズムに担保させた方がいいのではないかと思う。ひき逃げに至る要因の多くを飲酒が占めることを見ても
アルコールのリスクは大きすぎる。
誤作動や顧客対応とかの技術的問題は
今となればそれ程の難問ではないと思う。
( 二極化? )
なんでも知っているが
なにもできない内科医
なにも知らないが
なんでもできる外科医
なにも知らないし
なにもできない精神科医
( 昨日の新聞にあった言葉 )
知ってるからなにもできない
知らないから何でもできる
…こうも言い換えられる気がする
考えすぎて何もしない人 (私(^^)
考えずに行動できる人
人はこの二つに大別できる
残る精神科医のことは
心という実体のない分野が
いかに難しいかを言うのか
( 昼下がりの山宮にて )
頭の上にポトっと落ちたものを払うと毛虫だった。3メートルほど上の枝から落ちてきたらしい。地面に落ちたケムシは上に登りたいのか雑草の細い葉にしがみつき上をめざす,しかし先に行くと葉が細くケムシの自重で葉が垂れてしまう。違う葉に移り同じことを何度やっても同じ結果になる。仮に登れたとしてもその先には空間があるだけだ。そんな徒労を果てしなく繰り返す。地面にはケムシが弱るのを待つのかアリがやってくる。 ケムシを掴んで元の枝へ戻せば助けることができるが,それをするのはどこか『不自然』なことだ。ケムシが善でアリが悪ということもない。 その様子をじっと見守る自らのサディズムに胸が疼く。ケムシにとっての私は神たる存在だったろう。
…私は何もなかったように,いつもの山路を降りてきた。
( 水道が出た日 )
80を超えた兄と遅い花を見に山間部の集落を通る。兄の山村の暮らしぶりへの洞察は深い。重川の橋を渡るとき,兄がつぶやく
『あの家はたしか水道を引いた家だ』… 兄は若いとき水道施設主任の資格を持っていた。開拓地の貧困ゆえに、家庭によっては水道を引くのが遅れ不便な暮らしをしていた。中古のポンプを手に入れて重川から水道を引いてやったという。まだトーチランプもなく七輪の火でパイプを加熱しての工事だった。
兄より10歳以上も歳上の夫婦が,台所の,また風呂から蛇口で水が出たときの、その喜びようは大変なものだったらしい。
取水口のメンテナンスを教えてきたというが、50有余年を経て、その夫婦は未だ存命だろうか… その後の河川改修で、兄の引いた水道はどうなったのか…
通り過ぎた気配では、住む人もなく廃屋になっているかも知れない。
耕地を、暮らしを求めての山村に及んだ暮らしが、いま潮が引くように過疎化が進んでいる。
新緑のなか、ひっそりと静まり返るその家のむかしに、夫婦の、ささやかな幸せに喜んだ遠い日は、たしかにあった。
‥雲の影‥
Obscured by Clouds
という1972年にピンクフロイドのアルバムがあって,その茫洋とした気怠さ,心象的風景に惹かれた
甲府から石和にかけての雲の影が東へ動いてゆく。雲の大きさは投影法で正確に影の大きさだろう。20分位で崩れて陰も無くなった。4月9日の午前に雲を見上げた,あの時空はどこへ行くんだろう。あの雲には主体というものがなく,目的も意味もなく(自分が)雲であることも知らなかった。そして未来永劫,同じ雲が現れることもない。46億年で初めて現れ,これっきりである。もっとも物理の法則で禁じられている訳ではないから絶対ないとは言い切れない。100枚の宝くじが全部一等になる確率よりも遙かに少ないが,しかしゼロではない。物理学が決定論から確率論になって,こんな表現になったのは何やら神秘的で好きである。そしてこのことは私という存在ともイコールである。私はこの宇宙に一回きりの存在であり,麗人にどれほど惜しまれても二度と現れることはない^_^
「でっぴかり」。。
小学校のころこれを
「いでみつ」
なんて読めないから そう呼んでた
創業75年 最後の和菓子
震災ボランティアの現場は老舗の和菓子屋さんだった。
釜やら見たこともないお菓子造りの治具やら全部が津波で破壊されてしまい,歩道にうず高く積まれた瓦礫の山に運びました。
初老の社長さんがお菓子の箱を持ってきました。このお店の名物だったとのこと。僅かに海水から免れたらしい。
『創業75年でしたが、これがほんとの最後の饅頭です、皆さんここで食べてって下さい』
…私達は立ったまま丸くなり饅頭を食べました。 若者の一人が、 おいしかったです、というと、社長は下を向いたまま頷きました
個人は質素に 社会は豊かに
経団連会長 土光敏夫の言葉
あれだけの企業再建や行革を成し遂げながら夜の接待やら宴会は一切を断ったという。
永年に亘り政治家たちはそれも仕事の一環と思ってる体質が癒着や忖度を生んできた。
土光さんの理念の原点は農家を営んだ母上がルーツだという。なるほど親の役割と子に託すものはそうありたい。『息子は別人格』‥ああいうしかなかったのだろうが,もし本心ならば親として政治家として責任放棄だと思う。
2/23は富士山の日
元ジュビロ磐田の中山雅史選手の手記。
「私の出身地は簡単に富士山の見えるとこではなく、小さいころから私だけの富士山が見える場所を知っていました。大学受験の合格通知がきた時、そこに行って富士山に向かってそれを見せたんです。合格したことを、富士山に見せに行かなきゃいけない気がして」
彼の純真の源を見た気がした
VANとJun
田舎もんのコンプレックスでファッションなるものへの反発というか染まりたくなかった。
といってもどっかに染まってんだけど。
バンだのアイビールックだのトラッドだの気持ち悪かった。Junはまだヨーロピアンで女っぽくていい。そのあとのヒッピーはホームレスっぽくて東洋人の貧乏感にはむしろ馴染めた…
VANとJunが伴淳三郎(通称伴淳)が創始者だったとは知らなんだ^_^ 東北訛りを開き直った芸風に秘めたファッションセンス?。徴兵逃れをしたのにちゃっかり『二等兵物語』なんてね。一緒に映画を見た生真面目な親父が憤慨してたっけ。
…創始者はウソですからね
温泉ぎらい…
テレビなんかで温泉紹介のシーンでタオルを巻いて入浴している…まぁ女性ならまだしも男性でもそうだ。それを見るといつも煮え切らない気持ち悪さを感ずる…曝け出せというのではなく,だから温泉なんていう野蛮な(笑)風習が嫌いというわけだ。他人と醜い全裸をさらけ合ってなんて,とても寛げない。たまに付き合っても上がってパンツを穿くとホッとする。日本アルプスの命名者ウェストンもそれを東洋の野蛮な風習としてシニカルに書いている。
下山したらさっさと帰宅して自宅の風呂に入りたい。温泉入って浴衣を着て,さあ宴会なんて…とてもとても…
風呂は究極のプライベート空間だからこそ寛げるのだと思う。 …偏屈見張人
障害の 僕に肩貸す友達に
ありがとう言えば オスと応える
1/31 ラジオで聴いた短歌
新発見のパターン
信号で止まると左側に見たことないラウンド1というボーリング場がライトアップされていた。最近出来たのかと同乗者に聞いてみると元々あったという。この道はよく通っている道だ。なのに全く記憶にないのは今に始まったことではない。十年も通った通勤経路で、ふと見ると「新発見」の家があったりする。ようは感心のない、用事のないものは目にはいっても単なる遮蔽物でありそれ以上の認識機能が動き出さないのだ。そういうわけで道案内はできない。
我ながらひどいと思ったのは親しい人に「あれ、眼鏡かけたんだ?」と言ったら初めからかけていたという。「メガネは顔の一部です」というキャッチコピーで弁明させてもらった。まして初対面の対談の相手が百万もする腕時計を、これみよがしに腕組みしようが、腕時計をしてたかどうかさえ記憶に残らない。
こういう習性を書くぐらいだから恥とは思ってはいない。しかし書いたら人間性を疑われそうなことが他にもかなりある
モノ忘れの変容
外から帰り玄関の鍵が開かない
壊れたのではなく
開けるつもりが施錠した結論に達した。
たしかに施錠して出たのにおかしい。
施錠を二度すれば開鍵となる。
マイナスの二乗はブラス(数学)
敵の敵は味方である(歴史)
内側の内側は外側である(生物学)
過ぎたるは及ばざるが如し(笑
‥ これ等はみな同じだろうか
物忘れは、することを忘れるより
したことを忘れる の方が多くなってきた。
若い時にはなかったことだ
施錠したのを忘れ更に施錠したのだ
チッ ったくも〜 ^_^
始発の音
娘の家から線路が近い
始発電車の音が聞こえる
沁みるというか
尊いものに聞こえる
働くことの尊さかな
世のシステムの有難さでもある
むかしは思わなかったのにね^_^
『誤解』の意味
民生委員の忘年会は早々4月に中止を決めていた。一応は厚生労働省からの任務ではある。そのトップの人たちの頻繁な忘年会やら会食に呆れる。飲み食いしないと物事が決まらないのか。その根回しをさも高度なことのようにいう『誤解』の真意はそういうことだろう。根回しの発展形がともすれば賄賂にもなる。永年のそんな体質こそ改めるべき政治改革ではないか。菅さんはどちらかと言えば好きなタイプではあるが,その辺に居るおっさんとすればの前提で一国のリーダーとしては?があって,むしろその負荷を可愛そうに思う。
。。10/31 昇仙峡発甲府行最終便。。
慣れない仕事で昼メシを食うタイミングを逸した,夕暮れの渓谷は寒い。
1732分発甲府行きのバスはほぼ満席だった。その中にハーフの外国人らしい若い女性がいて,温泉に入りたいらしい。
湯村温泉と教えると.ありがとう,と降りて行く。その際にスイカの残高不足が発生,重そうなザックから小銭入れが中々出でこない。焦る気持ちが伝わってくる。私がザックを支えて上げ、やっと両替の段取りまでなった。
彼女は降りるとき私にではなく、車内の乗客全員に向け、片言の日本語で待たせたことを詫びた。運転手や腕章を付けた私にではなく、車内の乗客に詫びるのが確かに筋ではあるだろう。組織や役割の先に、まずは個人ありきという感覚なのだろうか。
ちょっとミーハーに見えた外国人女性の,なんと立派なことか‥ シャイな私たち日本人にできるだろうか‥ ちょっとした異文化に触れた想い。いいもん見たなぁ と思った。
働くことの良さはこういう所にある
。。踏み間違い。。
友人の改造したロードスターに試乗したとき,走り出して一旦停止でブレーキを踏むと猛然とダッシュした。何だこれは!と更にブレーキを強く踏みそうになるが辛うじてクラッチを切り事なきを得た。ヒールアンドトウ,というブレーキを踏みながらアクセルも操作できるレーステクニックのペダル配置で知らずアクセルを踏んでいたのだ。 踏み間違いの自覚はないのだからメカの異常としか思えない。オートマだったら池袋暴走と同じになったかもしれない。自覚があったなら止まれた。無いからメカの異常を主張するのだろうが,しかし自分を疑うことをしないのだろうが。人間の認識なんて勘違いと思い込みで出来ていると思うけれど
80を超えた私の兄 生家で両親を看取ってくれた兄のお陰で気ままな次男坊だった。
両親は長男の優しさに恵まれ,自宅で生涯を全うすることができた。
小さい頃は兄のベンリイ125が家の唯一の交通機関であり、よく荷台に座布団を敷いて乗せてもらった。まだ兄も10代だったろう。寒い北風の家路に兄の背中に隠れ、そのジャンパーのポケットに手を入れて寒さに耐える,『大丈夫か?』と弟を気遣う兄。その優しさと背中の温もりを忘れない。『単車はいいぞ』という兄に感化されバイク好きになり,弟にも波及して私達兄弟の人生を支えてくれた。
そのルーツになった晩年の兄はいまや父代わりになった。6人兄弟で欠けたのはS20年に2歳で死んだ妹だけ。その幼い面影を偲ぶのはこの兄と姉の2人しかいない。いつまでも元気で,風間家の歴史の語り部でいて欲しい
2001年宇宙の旅
この映画が公開された翌1969年、人類が月に到達した。
映画では2001年に月面基地で400万年前に埋められた謎の立方体モノリスが発掘され、発掘と同時に木星に向けて強い電波を発信する。
モノリスの指し示す木星に向かって宇宙船の旅が始まる。
…登場人物は5名ほど、しかも後半はボーマン船長独りになるから台詞はなく呼吸だけ。地球から7億キロ、宇宙の深淵の恐るべき孤独と虚無感が迫ってきた。上映中、観客の誰もが咳払いもためらう程の息詰まる沈黙…あとにも先にもあれほどの無音の作品はない。
…映画が公開された68年は成長著しい時代、2001年という響きは未来だった。月の到達の次は火星、そして33年後の2001年ぐらいには、木星軌道への旅も夢物語ではない…だれもがそう思っていた。
そして今は2020年、木星どころか火星すらめどは立っていない。あの映画から51年、人類の発展にはさまざまな阻害要因が発生し、行き詰まりを見せている、宇宙どころではないというのが現状だろう。しかし知的欲救はヒトという生物に特化された最大の願望であり能力である。多少の基金を供出しても夢を見させて欲しいのは私だけではないだろう。
画像はイントロに、ツアラトウストラはかく語りき,が流れた場面、この音楽はいろんな場面に使われるが、これ以後、2001年の音楽であるかのようになった。ピンク・フロイドに音楽製作のオファーがあったと言うが・聴いて見たかった気がする。
マスクをしない自由‥
まあそれも主張できることではあるだろうが‥ 感染する自由はあるだろうがさせる自由はないだろう。‥それでもあれだけ声高に自由を主張できるお国柄とは何だろう。自由を何より大切にする理念は分かるし尊重に値する。
自由とは何だろうか…自分のことを自分で決められる権利‥ これが大切なのは分かる。それは命の次に大切なものかもしれない‥ でもその自由によって命を脅かされるとしても、自由のためには命をも惜しまない‥ ならちょっと格好いい。
自由の究極の姿は何も拘束されないことだろう。人を殺す自由,糞尿たれ流しの(笑)自由… それでは困るからいちいち法律で明文化してある。それに触れるかどうかという行動規範は一見合理的だが犯罪者の行動規範である。普通の人はその前に倫理観という規範があるはずだが… 倫理観とはいわば大人の感性なんだろう。それが薄い社会は子供じみたものに見えるが,しかしそれも子供らしい天真爛漫さが許される社会と見ればまた価値がある気がする。(私は静かな方がいいが^_^)
いずれにしろ何らかのツケがくることを覚悟してどちらかを選択するしかないのだろう。その中庸を賢く選択すること。ものごとはその『程』というのが一番難しい。父の床の間に飾ってあった字がそういえば『程』の一字だった。 2020/8/04
困りごと相談会の担当になり、私のような世間知らずが困ったもんだと緊張して小部屋に入った。担当は私の他に30代ぐらいの髪ボサボサの司法書士。ろくに挨拶もなく一言も交わさない。これは頼りにならない、困ったと思っても時間が来て60代と思われる女性が入ってきた。土地問題の極めて厄介なトラブルである。切々と話す内容が私には理解できない。若者はうつむいて相槌もない。こいつ聴いてるのかと不安になる。10分ほど経って若者が口を開いた。驚くことに論旨を全て理解し、出来ること、諦める部分。その中で今すべきことを静かに淡々と、しかし冷たくもなく、極めて理路整然と話した。女性は納得して帰った。若者の沈黙は聴くことに集中していたのだ。
私などつい好印象を与えようと、要らん愛想や所見を挟みたくなる。さらに自分らしい解決策なんて望むもんだから難しい。最も大切なのは論旨を掴むこと、現時点での対処の可否、問題が更に悪化しない為に手を打つこと等…
法を前提にしてのことだから私情を挟む余地はない。感情に囚われていたら論理を見失う… 私などつい人情で聴いてしまい本質を見失う。さすが法律の専門家は話の聴き方が違うのだと、いい経験をした。終わったらボサボサ髪が金田一耕助に見えた ^_^
私は縁起は信じないし運命ということもなく物理法則以外は偶然だと思っている。しかしその偶然とはまったくのランダムネスなのか,何らかの法則性はないか。もしや数学の素数の分布のランダムネスと深い所で繋がってやしないかと妄想したりする。
今朝の診察No.に49が出たことに何の因果もなく、この数字の語呂合わせを普段ならせせら笑う。これが映画館の座席だったり、病院でも怪我とかなら気にもとまらない。しかしこのところの胃の違和感で癌を恐れている人にいきなり無情な(笑)49が出た瞬間を表現するなら,ジャーンというより,ふんわりと天使の羽毛みたいに出てくるのがイヤらしい。
私の症状は婿とよく似ている。たぶんそこには反映のような心理もあって,弟がダカールで左脚に重傷を負った時,私もむかしバイクで同じ部位を骨折した古傷が痛んだ。アフリカと離れていても血の繋がりを感じた。負担を分かち合おうという心理から来るのかもしれない(美しすぎるかも?^_^)
死んでもそう問題ないような想いが老人の習慣でよぎるが,ここに来てあと10年ぐらいは娘の足しにならねばと想う割に危機感がない。まったく心配性なのか呑気なのか自分の正体が分からない。しかしこれも今だから言えること。これまでの運(と言っている^_^)が尽きるとしたら自分がどれだけ狼狽するか悲観するか,なってみないと分からない。
そういうことはよくあるらしい。。心と体の神秘的な関係。想うのは未だ医療もなにもない古代に、ただ祈るしかなかった、それ故に敬虔な心をもっていた人間の、病に苦しむ人への、苦しみを分かち合ってやろうという反応の名残りではないだろうか。そういうことを皆が背負い合う真心の時代。。それは現代人が科学的根拠で想う以上の相互作用があったかもしれない。