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2014年01月05日 14時47分 | カテゴリー: 総合

…   望郷   …       バス停の光景

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ふるさとを離れる18歳の春、バス停から故郷の山々を眺めた日を忘れない

山国育ちの私は、海をふるさとにする人たちの心はどんなものだろうかと思う

   私はバス停のたたずまいが好きだ。子供のころバスに乗って出かける嬉しさのなごりだろうか。

自家用車のなかった時代、乗ることができる自動車はバスだったから、そこに立ってバスを待つ高揚感は格別なものだった。

家から坂道を下った所に「八幡村役場前」というバス停があり、そこから日下部とか甲府の街に行くのは最上級の楽しみだった。逆に賑やかな街からの帰り、バスから降りて真っ暗な坂道を帰る時は何ともいえないわびしさ感じた。   「八幡村役場前」は私にとって社会への出入り口だったわけだ。

   どんな山奥の村でも、寂しい海辺の道でも、バス停には人の気配がある。そこはただの場所ではない。

どんな辺鄙なところでも、そこだけはなにか違う重みがある。どんな人がそこでバスを待つのだろうかと想像する、バスを待つ理由は人それぞれだろう。   「バスを待つあいだに、気分を変える」という唄の一節があった。いろんな喜怒哀楽がバス停を通り過ぎていったことだろう、そんな思いがバス停の標識には沁みついているようにみえる。

バスは新しいバイパスなどではなく旧道や旧市街を縫うように走ってゆく、そこに昔から人の営みがあるからだ。バスはその地域のむかしの在りようを背負っている。バス停の名前には、今はもう存在しない役所前や郵便局、小学校、公民館、橋、坂、など旧地名が表示されていたりする、それは地域の人に馴染んだ呼び名なのだろう。それを辿れば、その地域の過去の成り立ちが浮き彫りになる、それは変貌を続ける時代のなかで、愛着をもって受け止められていることだろう。この時代に,そんな掲示物はバス停をおいて他にないのではないだろうか。

   ときおり路線廃止という事情なのか、そんなバス停の標識がごっそり処分場にあるのを見ることがある、その地域のひとつの時代が終わってしまったような喪失感を感じてしまう光景である。

全国津々浦々のバス停の一つひとつが、私にとっての「八幡村役場前」のように、誰かの出発点であることだろう。それはその場所の尊厳であるように思う。

いつまでもそんなバス停が存在し、そこをバスが走る世の中であってほしいと思う

執筆者: kazama

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