JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
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二つに割れていた皿のかけらが
捨てられるとき 軽く触れ合って
さよなら、と言いあった…
私は今朝の新聞でみた、この数行に釘付けになった。
1月20日に亡くなった詩人の吉野弘さんを悼み、評論家の北川透さんが寄稿した記事にあった詩の一部だ。
皿は割れたらもう皿ではなくて、ただの瓦礫に過ぎない。皿の破片など誰も顧みる人はいない、
でもそれゆえに、ひそかにこの世から去ってゆく哀切さに心を寄せたのだろう
私は死に対して、肉親とのお別れのその先に、自分との別れがあると思っている
自我をなくし、自分であることを止めるのが死の締めくくりの、メインイベントだと思う。
家族には、いままでありがとうと言うだろう。
でも苦楽を共にした自分とのお別れに、どう言ったらいいのだろう。
そのことはいまだかって誰からも、聞いたことも、読んだこともなかった。
しかしこの三行の、かっては一つだった皿のかけらどうしが、触れあった、
かすかなその音は、自分とのお別れに際してのイメージに近いものに思えた。
死ねば自我をなくすのだから、もう自分ではなくて、ただの物質になる。
来世とかいって、自我を持ったまま次があるような概念があるが、
それは単なる生命の延長線という願望にすぎなくて、死ねば無になり物質に戻ることなのだと思う。
そのことにおいて皿の死と人間も同格だとおもう。
沈黙を保ったまま、この世を去ってゆく皿に心を馳せるのは確かに思い過ごしではある、
でもこの種の人たちは、そんな不合理はわかっていて、もののあわれ、とか、侘び寂びとかいって、
それが愉しいからやってきた。 ただその反作用として、つべこべと主張ばかりする人間のことを嫌いになり、
人によっては社会不適合になることもあるのは否めない。
いや、けっして私のことではありませんので、あくまで一般論ですから。
執筆者: kazama
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