JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
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旅先の夕暮れどきはその土地の生活感がたまらない。
そこが無縁の土地であるほど甘酸っぱい旅情に浸ることができる。
私の旅の目的は風景だけれど、それが寂しいほど良い風景ということになる。
私の旅とは寂しがりにいくようなものだ。
寂しい風景の中に立つと、外気と体内の空気が一体になったような居心地の良さがある。
だから遊びのほとんどが一人であり、たまに友人と行動を共にする時は「お付き合い」のニュアンスが強い。自ら友人を誘うことはロープが必要な登山ぐらいしかない。
また宿泊先を予約することは束縛につながるので滅多になく、ほとんどが車中泊とテントになる。
たいがいが、こんな夕刻になっても泊まり場所は決まっていないが、その状況が繊細な感覚を産む。動物として未知の場所で、夜のねぐらが決まっていないことは心細い状態である。
そんな心境で見る、見知らぬ街の、夕げの支度のころの生活感はたまらないぬくもりがある。なにげない日常というものの価値を痛切に再認識するときである。
その見え方としては犬の散歩とか、新聞を読んでいるステテコのおじさんとか、日頃はどうということのない、むしろ退屈に見えるようなシーンのほうが心に響いてくる。
考えて見れば退屈ということは平和の象徴のようなものだ。
よその土地でねぐらが決まっていない程度の心細さでも、その平穏さが、すでに光輝いてみえることに驚く。
それがもっと極端な、戦争で居住地を追われたようなときには、たまらない贅沢な時間に思えることだろう。
そんな旅の目的というか効果としては、新しい発見よりむしろ、結果として日常というものの見直しにある。
新しいものを手に入れるのではなく、今もっている物の価値に気ずくことにあり、それは幸福感につながる。
そのためにはいっとき、意図的に貧しく、ひもじい時をすごすほうがいい。
それは同時に経済的効果という、願ってもない副産物を産むことになる。
いや正直に言えば、それが目的なのだけれど。
執筆者: kazama
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