JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
This is a static page.
まだ静岡の単身赴任の今頃の朝、会社の正門前の桜が咲いた。
その時ふと、郷里にいる晩年の父のことを想った。
もしやこの桜が見納めか、なんて想っていないだろうか、、、
そんな気になってはっとしたことがあった。
父は実際に次の桜を待たず、開けて1月の大寒の朝にこの世を去った。
この花にはそういうところがある、刺すように何かを迫り、鋭利な刃先を突きつけられるような感じがする。
桜の花はあっという間に散って葉桜になる。次の桜まではまた一年を待たねばならない。交通事故や病気にもならず、果たして一年を無事に送れるだろうか、、、ふとそんな気になる。 まして晩年を過ごす人の心に、この花の刹那的な潔さは華やかさを越えて、むしろきついものではないだろうか。
若い時は憧れたが、潔く散るというのは簡単に出来ることではない。そこに日本人の理想像を重ねるのは、いささか荷が重いように思う。
そしてその美意識の危険さは必ず、かっての大戦に結びつく、特攻機に「桜花」と名づけたことに当時は抵抗感はなかったのだろうか。
風林火山という大河ドラマに、信玄の父で暴君と言われた信虎の酒乱を描いたシーンがあった。
春の宵に酩酊し目の据わった信虎が、桜の老木に縛り付けた侍女の苦悶を肴に、ひとり杯を重ねるというものだった。信虎の狂気は侍女を切るのではないかと怖れながら、私はその陰惨な美に引きこまれた。
美というものはむしろ退廃のなかにある。そしてその完璧な構図の主役は信虎を越えて、桜の老木であったように思う。
桜の木の下には屍体が埋まっている、、、誰かがそう言った、そんな妖しい狂気がこの花にはある。
その妖気の下で屈託なく花見の宴を繰り広げる人たち、そのコントラストもまた、春の風物詩として魅力的なものである。
しかしこう書いてみて、はたと思うのは、桜にはなんの意図もなく、ただそこに咲いているだけという事実である。
執筆者: kazama
This post was displayed 911 times.