JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
( 2011年 5月25日 )
99歳の母の食がままならくなった、という連絡がありました。
いよいよ覚悟していた時がやってきたのかと緊張しました。
しかし実家にいくと流動食だけ、というものの意識はしっかりしていたので、一安心しました。
5月25日には皆が集まりました。この日の母は会話にも反応していました。しかし喉になにか詰まらせているようだったので看護士に連絡すると、二人が吸引の器具を持ち、すぐ来てくれました。母はその器具が目に入ったのか「おっかないよう」と言いました。詰まっていた状態はそれほどのことはなく、血圧は88有りました。しかし看護士からは嚥下(飲み込み)できる状態ではなく、口からは何も与えないように厳しく言われました。しかも点滴も負担になるから出来ないと言う、つまり栄養を与える手段はもう残されていないのです。それは、穏やかな死を迎えさせてやってください、という事なのです。
看護士たちが帰ってから、母は咳をするようになりました、少し苦しそうでもあったので背中をしばらくさすりました。落ち着いたようなので食事のため母の傍を離れました。食事から戻ると急変していて、もう呼吸をしていないのでは・・・。何故?、納得できない急変でした。呼吸はなく、脈拍も感じられません、呆気にとられました。 なんと迂闊なことか、母が去っていくとき、隣の部屋で呑気に食事をしていようとは・・・。あのとき、母は薄れゆく意識のなかで、いくらかの聴力は残っていたのではないか、せっかく皆が傍にいながら声もろくにかけなかった。この世のほんとうの最後の時間に、薄い意識のなかで、かすかでも家族に囲まれている気配を母は感じたのだろうか・・でも、もう遅い、地団太ふんでも・・・・。
この極めて厳格なる境界・・・これほど取り返しのつかないという事が他にあるだろうか・そう後悔しました。 母が死んだ・・・。ついにこの時がやってきた、来てみればそれは現実と受け止めるには大きすぎるのでしょう、茫然と認識していた感じでした。
( 最後の検診 )
母の医学的な、正式な死は、しばらく後でした。
お医者さんを待つあいだ、事態を知らずヘルパーさんが来ました、いつも通りの顔や体を拭いたりしてもらう時間でした。ヘルパーさんはそのつもりで来たのですが、母の突然の死を知り、もうそのケアが必要なくなった事に打ちひしがれ、悄然として帰っていきました。介護していた人の死に必ず直面しなければならない事は仕事とはいえつらい事でしょう。
母はそんなヘルパーさんに「ありがとう」と良くいいました、認知症が進み、時間感覚や記憶力は無くなっても、他人への心遣いなどの人間としての基本部分は最後までしっかりしていました。
脈拍、瞳孔反応などの死亡確認を受ける母、それが終わればまた、
「ありがとう」と言いそうに見えることが哀れでした。
脇のテーブルにある「芳野」と書いてあるコップ、流動食やお茶などを与える吸い飲み、あれほど日常生活に必要だったものが、今を境に要らなくなった、それは哀しい実感でした。死後の処置をするヘルパーさんが二人で来て、黙々と作業をしてくれました、母の入れ歯を磨き、死後硬直の進まないうちに入れて貰いました。母のベッドは業者が来て、あっという間にかたずけられ、母の居場所が、がらんとした空間になってしまったことは、母の老後の生活、そして母の時代の終わりを告げるものでした。
( ツバメの弔問 )
かって父と二人で生活していた部屋に寝かされた母は、まるで寝ているように見えました。
すると2羽のツバメが入り口から入ってきて、母の上を旋回するのです。二羽のツバメは出口を探している風でもなく、父の表彰状の額や、叔父や叔母の遺影の額に止まり、あたかも寝ている母を見下ろしている様に見えました。
外は暗くなり始め、出ていかないとツバメも困るだろうと思ううちに、近隣の人たちが弔問に訪れました。ツバメはその上を飛んでいましたが,フンを落とさないか心配でした。
弔問の人たちが帰ったあと、なぜか一羽のツバメだけ暗くなった外へ出ていきました。
私はその晩、母の隣に寝ました、枕を並べてというつもりでしたが北枕になると兄たちが言うので方向を変えました。残された一羽のツバメはどうするのか気になりましたが、なぜか夜遅く、母のベッドのあった部屋に移り、そこで一夜を過ごしたのです。
母が亡くなった深い夜が薄明るくなっていき、やがて鳥の声がし始めました。ツバメはどうするのか。。私はこのツバメが母のように思えました。やがてツバメは意を決した様に明るくなった空にさっと出ていき、いったん空を大きく旋回し、庭先に戻ってきて、再び飛び去っていきました。
もう一つ、兄の目撃したこと。
母が履物を履いていた縁側の石の上に、スズメの雛がいて、もしや巣から落ちたのではないかというぐらいの。。その雛がその石の上から飛び立っていった。兄が言うのは、母があの雛になって飛び立っていったのではないか。。ツバメが家に泊まったことも、縁側の石からスズメの雛が飛び立っていったなんてことが、兄の知る限りあったことがない。。あまりに出来過ぎたようなこの事実。
--- このツバメやスズメの雛の様子は何だったのでしょうか。あくまでも偶然とするのが科学的な態度でしょう。しかし偶然とは、総てを支配している領域です、あらゆる秩序は偶然から生まれたものです。偶然とは何だろうか。 それこそは人類の叡知を越えた永遠のテーマ・それは神の領域に迫ることに他ならないと思うのです。
( 母の心労 )
母は.いつも姉さん被りの手ぬぐいにモンペというスタイルでした。目に焼きついているのは籠をかついで山の畑に桑を取りにゆく姿でした。指に切り刃を付け、桑を切る速さは父親以上でした。蚕が成長するにつれ、母が取ってきた桑を蚕に上げると、一斉に食べる音がザーッと、まるで雨の様に聞こえました。
そんな厳しい農作業のあとの家事、電化製品と言われるものはなに一つない時代、農作業との両立を考えると想像を絶する激務だったことでしょう。時おり母は、床にうつぶせになり、足の裏を踏んでくれと言いました。小学生の私の足は小さく、丁度よかったのでしょう、「冷たくて気持がいいよう」と言う母の、その足裏の感触が今でも残っています。
内向的な性格で父母の手を焼かせた私は幼稚園や小学校に行くのが嫌で朝は鬼門でした。「歳男は引っ気で困ったもんだ」、とよく言われましたが、同時に私は気難しい性格でもありました。
私は病弱でもあり、しょっちゅう熱をだし、学校を休みました。四年生の時には特に重症で一か月近くも休み、病院で精密検査を受けました。以前から私は腎臓の機能に問題があり、検査結果の説明を受けに母と私は診察室に入りました。静かな先生は母と私に向かって、腎臓の状態は今後も直る見込みはない、大人になっての職業選択も、その前提に立つように、と言いました。小学生の将来に職業選択を制約されること、その重みは私以上に母を落胆させたに違いありません。内向性による集団不適合に加え、身体に不安を抱えた息子の人生はどうなるのか、そう思ったでしょう。
母と私は悄然とバスに乗り帰宅しました。将来を悲観した私は、暗い部屋に籠りました。すると母がすぐ戸を開け、
「泣くじゃあないよ!」と厳しい顔で言いました。確かに私は泣くつもりでした。それを察した母は絶妙のタイミングでそう言ったのです。温和な母のその気迫は、息子の将来への覚悟を感じさせるものでした。
その後の腎機能検査のたびに落胆していましたが、母が芭蕉の根を煎じて飲めばいいという情報を、村の旧家のお婆さんから聞いてきました。母が茹でた芭蕉の根の液体は赤茶色のとてもまずいものでしたが、私は腎臓が直るならばと、我慢してその液体を大量に飲み続けました。そのせいか、いつしか腎臓の機能が少しずつ改善し始め、高校の卒業のころはほぼ異常なし、というところまできました。息子の病気を治したい一心で、芭蕉の根という先人の知恵にまで辿り着いた母によって、私の人生に光が差したのです。
やがて東京に行先が決まり、私も家を出る日が来ました。甲府の岡島デパートで買った背広を着た私は、バス停に向かって、慣れ親しんだ能勢坂の坂道を下りました。
しばらくすると「歳男!」と母の声に振り返ると母が下ってきます。私が腕時計を忘れ、それを渡しに走ってきたのです。母はそれをギュッと私に握らせ、
「振り返るじゃないよ!」と視線を交わすことなく、くるりと向きを代え、坂を駆け上がっていくのです、その姿には、病弱で内向的だった息子の人生の門出への緊張感、我が子を送りだすことへの覚悟と、そして寂しさと、、、その総てが感じられました。
私には背中を丸めて坂をかけ上がってゆく、あの日の姿が、母の究極の残像なのです。
( 旅装束 )
母の死に顔はかなり変わりました、女ですから見せたくないだろうなあ、と哀れに思う程でした。しかし、母の表情の最後を愛しく思いました。母の最期の表情は先祖から受け継いだものなのでしょう。目の表情や顔の肉付きなどは個人の生きざまが現れてくる、顔に責任を持てと言われる所以であります。しかし骨格は遺伝的なものであり、ルーツそのものです、母の表情もそうであったに違いありません。母の命を形成する遺伝子が辿ってきた道が、最も表出した顔だったでしょう。ルーツから生まれた人は最後にまたルーツに帰るのです。
5月28日(土)の朝刊には母の名前が載っていました。新聞に母の名前を見るのは初めてです。兄と二人で、母の名前が載るのは最初で最後のことだなあと、私達は「風間芳野」というその活字をいとおしむように眺めました。
その日はもう通夜が行われ、納棺の準備を初めます。それまでは布団に寝ていて眠っているような感じでしたが、納棺してしまうと、いよいよ黄泉の国への歩みが始まる気がします。一層小柄になってしまった母親は嫁入りのとき持ってきたという緑の着物を着ていました。
私はこの人から生まれた、私の骨肉は、この人の体から合成されたのです。すべてはこの母の小さい体から始まった。まさに私のルーツ、わたしの故郷、わたしの宇宙といっても過言ではない関係性、その圧倒的な濃密さはあらゆる他の人たち、いや物質を含めても母という存在にかなうものはありません。
家族みんなで草鞋、脚絆、六文銭などの旅支度をします。遠い旅に出る母、この小さい体で、その遠慮がちの性格で、未知の世界への一人旅、それはあまりに寂しい旅路です。
父の時はそう思いませんでした。男は一人旅がふさわしい、たとえそれが死出の旅路ではあっても男はそういう宿命を背負ったもの、という概念がありました。しかし、か細い母の旅装束は、あまりに哀れでありました。そこになにか救いがあって欲しいと思っても見つかりません、それは葬儀の風習のなかで工夫がほしい部分のように思いました。 釘打ちされてしまえば一歩向こう側に行ってしまいます。もう二度と触れることのない母の頬に、これまで注いでくれた愛情に感謝を込めて触りました。
( 通夜 )
斎場には「風間芳野葬儀会場」と表示してあって、今更ながらの実感に曝されました。普段は表に出ることの少なかった母が、このようなステージで主役になることは哀しく、また違和感を伴うものでした。母の遺影は。その人柄が充分に表れた表情で壇上から微笑んでいました。
通夜は母の、この世の最後の夜です。いくら惜しんでも時は進みます。渦巻き状の線香に日を灯し、姫神の曲、「月のあかりはしみわたり」をかすかに流しました。母は瞑目し何を回想するのでしょうか。
いつしか私も眠ったようで、気が付いたらひそやかな夜明けの灰色がやってきていました。この夜が明けて欲しくないと思いました。夜明けは母がこの家を出てゆく日であることを意味します。
5月29日(日)、告別式は雨の日でした、それもかなりの雨量で棺を霊柩車に乗せるのに濡れました。母の乗った霊柩車が、雨に濡れた緑の能勢坂を下っていきます。母は千米寺から、この坂を上がって嫁いで来たのです。風間家の妻、6人の子の母という役割を終え、そして人生を終えて、母がその坂を下って行く・・・。
お別れの火葬の時、皆が合掌して送るなか、兄は母の棺に手を振りました。参列者のなかで、母と一番永く暮らしたのは兄でした。家を出た私達とは別の感慨なのでしょう。その兄のバイバイは、様式の流れの中で、率直な親子の別れでした。
葬儀が終了し、皆が三々五々帰っていきます、どこかで母が、参列者の個々に、葬儀へのお礼を言っているような気がしました。
( 母のいない空 )
山梨の山を歩いていると、根拠のない安心感があります。山梨であろうが他のエリアであろうが、山の危険性に変わりはありません。なのに言いようのない安心感、それは恐らく父母がいるから、ということだったように思います。なにかあったら父母が助けにきてくれる・・・。この幼児姓の延長線上にある感覚ではなかったろうかと。
乾徳山に久しぶりに登りました。ふと南側の山梨市あたりの方向を意識します。それは動物の帰巣本能にも似て、絶えず意識する方角なのです、最も安全な、そして安心なところ、そこには父母がいる・・・。
戦時中、戦地に出撃する部隊が故郷礼拝という儀式をしました。父母のいる方向に向け各自礼拝を行ったのです。
しかし私の意識にある方向に、父母はいない、その感覚を噛み締めました。その方向、という意味はなくなったのです。同時に父母との距離感というものもなくなりました、実在している時は物理的な距離が意識の奥に存在していたからです。
どこにもいない・・・この空虚さをどう表現したらいいのか・空虚とは、もはや表現の域の外なのでしょうか。
なくなったものが「子供」というポジションでした。親がいる限り、たとえ還暦を迎えようが、否応なく子供という立場はあります。大人になる、ということはこういうことなのでしょうか、親を亡くして初めて大人になる、親を亡くしたこの感覚、この空白感こそ大人への道筋であったのか。
それは不思議に、地に着いた感覚でもありました。だれもが辿ってきたということへの共感。初めて感ずる、この普遍性、 あきらめる、という静かさ。
霊魂の不滅ということは、そうあってほしいという願望であるように思います。無から来て無に帰る、たぶんそうだと思います。 自分自信の死もそれでいい、その他の形は無いほうがいい。この世の容物である宇宙に意志はなく、意志の無いものに支配されている。そこに究極の公平さがあり、ゆるぎない安定感を感ずるのです。
執筆者: kazama
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