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2023年11月13日 13時44分 | カテゴリー: 総合

時間と自己

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…この本を読むのは2度目である。前回に感動したところやら目から鱗のような個所に赤線やら括弧がしてある。
ところが今読み返してみるとなぜ感動したのか解らない。
この数年の間に私の何かが変わったのか…
それは考え方ではなく理解力であり脳の切れ味のような気がする。
たしかに難しい内容であり一言一句読み飛ばせない、数学のような論理の極みである。
しかしそれを理解できたからといって生きる上で何の足しにはならないし、むしろ有害なことだろう。真実か有益とは限らない。真実を知らない方が幸せなことが多い。
今ってなんだろう。現代とか言う広いことではなく、
過去と未来の間としての今を厳密に定義するのは難しい。
未来が今になり過去になる。未来も過去もさわれない。
唯一今だけがさわることができる。そうだろうか?。。
一秒前はもうさわれない。今というのはとてつもなく尖った切っ先で、さわれない気がする。目にした今はすでに過去ではないだろうか。

ものがいま倒れてきて支えた、それは倒れたという過去を見てこれ以上倒れないように(予防)したのではないだろうか。
試験の問題を予測して準備する、そしていま問題がわかった。答案には準備してあったことしか書けない。やはり今になったらもうそれをかえることはできない。
 時間にはどこもさわれない、つまり時間という『モノ』はない。
それはあくまで概念でしかなく、私たちが限られた期間しか生きられないからこそ、そう感じられるのではないか。
 私たちには始まりとおわりがあり、死というおわりに向かって『刻一刻』と歩んでいる、それが一定方向にしか流れない時間そのものではないだろうか。時間というのは内面的というか、生きる意識の中のものでしかない。
 たぶん宇宙には時間はないだろう。変化はあるけれどそれは時間ではなく、「現象」である。そこに前後はなく、過去も未来もない。
 ビックバンを始まりと言い切れるだろうか、終わりだったかもしれない。
 エントロピーの法則というのがあって、物質は崩壊する方向にしか変化しないというものだ。ビルは崩壊する方向にしか変化しないし岩石も風化する方向にしか変化しない。そこには確かに一定の方向があって、あたかもこれが時間の正体のようにも見える。
しかし風化を後だと言い切れるだろうか、原材料に戻っていくともいえるのではないか。
 そもそも始まりとか終わりとか考えるのがすでに生物的尺度である。
宇宙に意味はなく、目的というものもない。無がすべてを支配している。その支配者である『無』というものを人は理解できない、というか耐えられない。
 無について考えることに意味があるだろうか…とすでに私も『意味』と言っている。
もちろん無とはなにかと考えても分からないだろうし、それを考えることは人間として前向きに生きることにむしろ有害でもある。特に若者や子供にはそう言える。
 そんな題材を私が好むのは楽になれるからであり娯楽である。
『無に帰す』というように無は行き先でもあり、ふるさとでもある。
そんな無駄なことや無意味なことを愉しむのが娯楽の真髄ではないだろうか。意味のあることや為になることは仕事や学業の範疇でいい。
しかし老化して死んで行く段階となって虚無が真実と思えれば
それは悟りであり、この上なく安らぎを得られるのではないだろうか

   2018/1/3

執筆者: kazama

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