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2017年03月28日 16時34分 | カテゴリー: 総合

死を知った日

( 土葬 )

私の生家の少し上に龍泉寺という寺があり、葬儀の野辺送りが坂を上がって行くのを良く見送った。

高く掲げた旗をもった人が「なーんぼい、ちんぼーい」というような声を出し、棺を担ぐ人のあとに、みんな静々と歩いていくのである。

その頃はまだ土葬だったから、墓地に埋葬されるまでを良く見に行ったものだった。

 墓穴は子供心にとても深く、暗く見えた、棺はその暗い穴の中にロープに支えられて降りてゆく。

底に着いた棺の上に花束が投げられ、箸の刺さったご飯茶碗やら酒の瓶などが投げられる。嗚咽の高まるなか、最後に墓を掘った土や石ころがどっと音をたてて棺にかけられ、見る見る棺を埋めてゆく::

死とはこういうものなのか、それはとても怖い光景だった。

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 多分、私が小学校2~3年生ぐらいだったろうか、そんな野辺送りを見て、なぜ人は死ぬのだろうと疑問をもった。

病気が重くなってしまって死ぬのかと思っていたので、そのことを父に聞いてみた。

父は土間で何か木を削るような仕事をしながら答えた

「人間は誰でも死ぬ、おとうちゃんだって死ぬし、歳男だっていつかは死ぬんだ」。。

父は顔も上げずに何の気なしに答えたようだった。しかし私にとって、それは予期せぬショッキングな答えだった。

 自分が死ぬ。。。ああして深い穴に埋められる。そしておとうちゃんも死ぬ。。。

私はその場にいられなくなり、裏の畑に行き、泣いた。いま思えば父の前でなぜ泣けなかったのだろうか。

たぶん父は、あのとき私が裏の畑で泣いたとは思わなかっただろう。

 私はそうして人の死を劇的に知った、自分が死ぬことを知る、これほどショッキングなことはないだろう、まして今のように、死とは来世とか天国に行くというものでなく、暗くて恐ろしい地中に埋められることである。。

大人になって友人などに聞いても、そのことをいつ知ったのか覚えていないという、なんとなく知ったと言うのだ。

しかし死という重大なことを、自分が死ぬという,恐るべき事実を知った日があったはずである。

それを意識もせず自然に受け入れてしまうということはどういうことなのか、私にはそのことの方がむしろ解らない、、なんと巧妙な、と思わざるを得ない。

これはいまだ解明しない、私だけの謎である。

執筆者: kazama

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