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2019年01月05日 17時36分 | カテゴリー: 総合

父の感触

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おとうちゃん ... そう呼んでみる ...

( 冬木立 )

九七歳の父は持病という程の物もなく、かなりの健康体だった。

父の健康は、私達子供からみれば大地のようなもので、それは父への頼りがいの基盤だったように思う。

 そんな父の飲食が細くなり、急に衰弱してきたのは昨年十二月にはいってからだった。

病人という訳ではないので、どこが痛いとか苦しいとかいうものではない、とにかく静かに、何も要求しなくなったのだ。ただ、何かをしてやると「 ありがとう 」という反応をしきりにした。

もしかして年を越せないのでは、とも思ったが、なんとしても深志の帰国の一月八日まではと思った。そのことを耳元で言うと、父はうなずいた。その後点滴を受けるようになり、いくらか回復したようだったが、元気になるというところまではいかなかった。

父はそんな容態で年の瀬を迎えた。いつもなら高揚して茶の間で語る父が、独り寝たきり で新年を迎えるとは...父の脳裏に新年は訪れたのだろうか?。

三が日は一通り子供や孫と対面し、しきりに周囲を見回していた父、声を出して意思の疎通を出来ない自分の状態を父はどう受け入れたのだろうか。

時として父は周囲に人が居るのをうるさがり、介抱に対して「 もういい 」と反応を見せた。それは賑やかなことが好きな父にしては意外な態度だった。医師の診察もうるさがり、医療にすがるような態度は見せなかった。それは周囲が対応に戸惑う、父が初めて見せた新たな気難しさだった。私にはそれが「 もうこれでいから構わないでくれ 」という、父のプライドのように思えた。しかし五日からは鼻腔からチューブで栄養を補給することになっていて、そうすれば容態の好転の大きな転換になるのでは...私たちはそう期待していた。

私は一月四日に静岡に戻り、五日の仕事初めを迎えた。出社してすぐ携帯が鳴り、ちょっとだけ不審に思った、朝の身内からの電話は不安なものである。だがそれは予想を超えていた。

「 お父さん、亡くなっちゃったんだって... 」という言葉だった。

...父が死んだ ...それはとても呑み込める事態ではなかった。

窓の外は冬枯れの木立が新年の朝日を浴びていた。その風景と会話の内容を、私は生涯忘れることはないだろう。

懸案の仕事の引継ぎをし、追い立てられるようにして会社を出た。独りの部屋に戻ると改めて深いものが襲ってきた。この世に父は、もう居ないのだ...そう思うと、しばらくは呆然として動けなかった。 思えば三日の日の帰り際に声をかけたのが、父との最後になってしまったのだ。なぜ父の生涯最後の日、一月四日にもう一度会ってから帰らなかったのか...そう思った。

当面必要な荷物を持ち、山梨までのドライブに出た。走りながら、この道のりが特別なものであることを噛み締めた。いつも通りの道程である、到着すればいつもの父が迎えてくれる気になる、しかし今度だけはそうではない...それを呑み込むには父の死に顔をこの眼で見るまでは無理だろう、そんな想いをくりかえしながら走った。

島田への長い下り坂から、十一月に行った山犬の段から黒法師岳への山並みが見えた。あの時はまだ紅葉の名残の中、三日間、誰にも会わず、笹の音だけの静かな山だった。私が山を歩いていたとき、父は山梨のあの家に居て、会おうと思えば、まだそれが出来たのだ...今にして思えば大切な日々だったことを痛感した。

由比のバイパスにさしかかると右手に海が見えてきた、穏やかに青く広がった海、漁船が浮かび、その向こうには伊豆の山並みがあった。いつもと変わらぬ風景と世間の営み、父を失った傷心に、それはどんな言葉よりも慰めを感じさせてくれるものだった。

 富士川の狭い谷を抜けると見慣れた山並みが見えてくる、この山並みをみると、郷里に帰ってきた実感がある、それはいつも変わらぬ姿で迎えてくれる、ふるさとの山はありがたきかな...全くそう思う、その感覚は父母の慈愛を含んだものであった気がする。慣れ親しんだ、その空気感に浸る、それは父の気配である、今は特にそれを求めてしまう、感覚はそうであっても、理性がそれを否定する、そんなことを繰り返す。

 生家はいつもと同じに見えて、そのことが却って哀しいことに思えた。

大野の広瀬さんが弔問に来ていた、なんとなく直ぐに父と対面する気になれなくて、ぐずぐずした。兄嫁の姉さんの「 いい顔をしているよ 」という言葉に勇気ずけられ、父との劇的な対面をした。  北を枕にした父は穏やかな顔だった、苦しまなかったであろうことは想像できた、口元には、なにか意思を感じた。朝方、兄が床に行って呼吸停止を確認したとき、まだ体温が残っていたという。

一月五日、父は眠りから覚めることなく、静かな死を迎えたのだった、おそらくそれは、父が自らの死に様として、満足のいくものであったろう。

 父の顔はいまにも何か言いそうに見えた、こういうとき、人は皆、そう思うのだろう。

一瞬、父の左手あたりの白い布が動いた、風かと思ったがそうではない、私には確かにそう見えたのだが、それは多分、私がそう見たのだろう。人は簡単に錯覚を起こす、私も限界に近い山では何度もそれがあった、たいがい希望的観測に物を見てしまうのだ、それが錯覚であったことを知ったとき、その後になんとも言えない寂寥感がやってくる。

いつの間にか龍也と愛梨が枕もとに来ていた。三人で父の顔を見ながら話していると、父もそれを聞いているように思える、父も会話のなかに居るような気がするのだ。供養とはこういう境地になれるものだとしたら、それは残された者への慰めにもなる。

枕もとの上の方で、「 カサカサ 」というような乾いた音がした、造花が風に揺れるような音だった、何の物音だろうか?、三人ともじっとその音を聴いた、たしかにそれは不思議な物音だった、先程、掛けてある布が動いたのは私の錯覚だとしても、三人が同時に聞いたその音は物理的現象である、多分それは床下でネズミが動いたのではないか...そう思うしかない音だった。父がこの世を去っていった日の夜、その静寂のなかでの、かすかな物音、もしそれが本当に床下のネズミだったとしても、心にしみるような寂しさと、そして愛おしさを感じさせる音だった。

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( 回想 )

 生家の少し上に龍泉寺という寺があり、子供のころ旗を持った葬儀の野辺送りが野背坂を上がって行くのを良く見送った。旗をもった人が「 なーんぼい、ちんぼーい 」というような声を出し、棺を担ぐ四人のあとに、みんな静々と歩いていくのである、その頃はまだ土葬だったから墓地に埋葬されるまでを良く見に行ったものだった。

 墓穴は子供心にとても深く見えた、棺はその暗い穴の中にロープに支えられて降りてゆく、底に着いた棺の上に花束が投げられ、箸の刺さったご飯茶碗やら酒の瓶などが投げられる、いちだんと嗚咽の高まるなか、最後に墓を掘った土がどっと音をたてて棺にかけられ、見る見る棺を埋めてゆく...死とはこういうものなのか、それはとても怖い光景だった。

 多分、私が小学校一.二年生ぐらいの時の事だった。そんな野辺送りが何度も続いたのだろう、私は、なぜ人は死ぬのだろうという疑問を持った。病気が重くなってしまった人が死ぬのかと思っていたので、そのことを父に聞いてみた、父は土間で何か木を削るような仕事をしながら答えた「 人間は誰でも死ぬ、おとうちゃんだって死ぬし、歳男だっていつかは死ぬんだ 」...父は顔も上げずに何の気なしに答えたようだった、しかし私にとって、それは予期せぬショッキングな答えだった、自分が死ぬこともだが、おとうちゃんが死ぬ、というのがたまらなく思えた。私はその場にいられなくなり、裏の畑に行き泣いた、いま思えば父の前でなぜ泣けなかったのだろうか...たぶん父は、あのとき私が裏の畑で泣いているとは思わなかったと思う。

私はそうして人の死を劇的に知った、自分が死ぬということを知る、これほどショッキングなことはないだろう、しかし誰に聞いても、そのことをいつ知ったのか覚えていないという、なんとなく自然に、と言うのだ。しかし死という重大なことを、意識もせず自然に受け入れてしまうということは、どういうことなのか、私にはそのことの方が解らない...なんと巧妙な...と思わざるを得ない。これはいまだ解明しない、私だけの謎である。

 父は身体の健康とともに心も健康だった。気難しいところもなく、真っ直ぐな人だった、それだけに父の俳句などを見ると、前向きな明るさがあっていいのだが、少し退屈な気もした。私は内向性が強くて父の手をやかしたくらいだから、つい影の部分に目が行くほうだった。そういう目線で見ると、父の作り出すものは何でも陽性だった、父の字は力強く勢いがあり達筆だが、もう少し枯れた字を書いたらいいのにとも思った。人との交流も積極的で主導的で、私はそのことに引け目を感じ、自分は父のようにはなれない...そう思っていた。

では父は単純明快で行動的なだけの人間かというとそうではなかった。父の社会との接点は広範囲だった、権力者との付き合いが多く、一時は地域政治の方面に進出するのではないかと思ったが、一方で落伍者の烙印を押された人のことも親身になって面倒を見た。人が敬遠する酔っ払いの相手なども上手かった、父は酒は飲まないのだが、酒席ではそういう人を引き受け、自らも実に楽しそうにしていたのは不思議だった。病人の介抱は苦痛を和らげ、泣く子をだますのも実にうまかった。父は貧困家庭や老人福祉など、社会の弱者への視点を忘れなかった。

その父の広範なスパンはどこからくるのだろうか?、地域では聖人君子といった評価だった。それは勿論嬉しいことなのだが、立派すぎてついて行けない、ある面、怪物的でもあった。父はこの地域の父であり、自分たち家族の父ではない、そう感じたこともあった。上流から底辺までの交際範囲で、一体父はどこが居心地よいのだろうか?、本当の父の心はどこにあるのか? そういう疑問があった。

 そういう父から見ると、私の内向性は、はなはだ期待外れだったに違いない。しかしそのことに落胆し、怒られたとか叱咤激励を受けたことはなかった。、おそらく父のどこかにも、私のような内向性は秘められていた筈だと思う、私の血は父から受け継いだものだからである。「 梅雄は泣き虫だった 」、よく岩手のおばちゃんがそう言っていた、それを父はいつしか風間家の長男として、軍人として、克服したのであろう、そして私の内向性を、子供のころの自分を見るようにしていたのかも知れない。

私はそれに加え、かなりの病弱で、しょっちゅう熱を出していた、病床からの障子に映る午後の日差し、夢うつつの天井の板の模様は、私が生家で過ごした時代の原風景になっている。夜中に歯が痛み出し、よく泣いたことがあった、父母は困りはて、下の家で電話を借り、小原の歯医者さんに夜間診察を頼み、自転車の座布団に私を座らせて坂を下った。しかし私は診察台を怖れ、治療の痛さを我慢できなかった、仕方なく治療をあきらめた父はそんな私を怒ることもせず、再び村までの上り坂の夜道を自転車を漕ぐのだ、罪悪感に打ちひしがれた私は、薄暗いライトに浮かびあがる砂利道の前輪と泥除けの影を見ていた、坂道の多い夜の砂利道を、子供を乗せた自転車で帰る労力は大変である、しかも徒労である、そういうことを何回もした、今でも本当に申し訳なかったと思う。私の子供時代の、劣等感につながる罪の記憶である。

私は無口だったから、あまり要求を口にだせるほうではなかった、そうしているうちに、物事が終わってしまうのだった。なんとなく損をしている気分だったからか、ここぞという時には意固地になる気難しさがあった。

小学校低学年の頃、父が甲府へ連れて行ってくれることになった。甲府と言えば当事の私にとって大都会である、まだ車はそんなに普及していなかったが、甲府には結構乗用車が走っていて、時にはアメ車の大型乗用車が見られたから、私にはたまらなく魅力的だった。また岡島や松菱というデパートの屋上には大型双眼鏡が設置されていて、その高倍率の視界は圧倒的だった。

 そんな甲府行きを指折り待っていたのだが、当日になって父の都合が悪くなり、行けない雲行きになってきた。私は地団太を踏み、徹底的に駄々をこね、大泣きをした、そのうち母が見かねて「 お父さん、いってやれし 」そう言いだした、父も私の剣幕に観念したようで、着替えを始めた。日下部駅まで自転車でいったのかバスで行ったのか、父は黒いコート姿だった。私は父に手を引かれ甲府の街を歩いた、岡島の食堂で食事をし、屋上へあがった、当事のデパートは屋上が小規模の遊園地になっていて、子供には売り場は用がなく、屋上に上がるのが何より楽しみだった。お目当ての大型双眼鏡からは雪煙を上げる富士山が視野いっぱいに迫ってきた、その見え方は私の持っている数百円の双眼鏡とは次元の違うもので、その屋上でいちばん魅力的なものだった。小さい観覧車があり、二人で乗った、覆いのない台車が回り出すとビルの外にせり出すような感じがして、思わず手すりを握り締め体を硬くした、父はそんな私に「 おっかないら? 」といって笑った、父も楽しそうだった。我がままを通してここまで来た、という負い目のある私には、父の笑顔はとても嬉しかった。午後の日差しを浴び、観覧車にのった黒いコートの父、その後ろの甲府の市街の向こうには南アルプスの山並みが青かった。その日の父の姿が今も目に焼きついている。

昭和三十年代前半の山村はまだ薪の生活だったから、「 もや 」と言われる、焚き付けになる枯れ木を山に採りにいった、私は半ば遊びで付いていったのだが、父は私用に小さい背負子を造ってくれた。それを背負って大人になったようなつもりで父についていった。かなり山の上まで上っていき、そこからは八幡村を囲む山々がぐるりと見渡せた、父が木を集める間、私も枯れ枝を集めた、やがて遠い山から舞ってくるような雪が音もなく降ってきた。父はほんの小さな火をおこし、持ってきた餅を焼いて「 ほれ、うまいぞ、食え 」と私にくれた、火を扱う手際のよさが印象的だった。ちらほらと雪の降るなかで、父と私は、遠くの山を見ながら餅を食べた、小さな火の暖かさ、餅のおいしさ、家の役に立てることの満足感...たしかに存在したあの日、それはもう50年もの歳月の彼方にいってしまった。

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( 旅立ち )

 父の通夜は一月九日だった、この日は年末から続いていた晴天が崩れるとの予報であり、何とか持ってくれればいいとは思っていたが、明け方静かだと思ったら雪になっていた。風景は美しいが、なにもこんな日に...と思った。道路状況によっては大変なことになる、父はどう思っているだろうか、とつい思ってしまう、雪は断続的なもので、大雪にはならなかった、空気は湿り気を帯び、初雪の情緒はすばらしかった。最初は天気をうらめしく思ったが、やがて父を悼む自然の演出のように思えてきた。実家に向かうとき、霞森山に付けられた新道から、生家を眺めた、雪景色のなかの生家、あそこにはまだ父がいる、あの家で父は生まれ、九八年を暮らしたのだ、きょうはその最後の夜である。父がいなくなってから、あの家はどう見えるのだろうか...そう思った。一月九日という日を撮っておこうと、家の周囲を歩いた、蚕影山には父の書いた字が飾られていた、撮っていると、また一段と雪が降ってきた、霞森山も、父が通った田んぼも、降る雪に霞んでみえた、父はこの雪景色を何度見たことだろうか、東山梨はそう雪の多い地域ではないが、父の通夜というこの日に、この重厚な雪景色になろうとは...

 今から二十年前の二月、昭和天皇の葬儀、大喪の礼も雪の日だった、父は天皇直属の近衛騎兵として軍役に服した、それは生涯を通じて、その後の父の立ち振る舞い、精神、プライドの根幹になったのだと思う。

  大喪の礼は現代の世に、いきなり古来の日本が再現されたかのような荘重な儀式だった。おりしもの雪のなか、十二単、裃の出で立ちに抑制された所作、これぞ日本の精神文化であり美意識である、皇室にはそれが連綿と継承されていたのだと思った。報道陣の海外メディアの外国人は、経済大国のこの重厚な様式美をどう思い、伝えたのか?、この時は日本人であることを誇りに思った。そして山梨の父が、この天皇の葬儀をどういう思いで見ているのかと想像したものだった。...そして二十年後の今日、自らの葬儀も昭和天皇と同じ雪になった、きっとそのことに父は満足しているであろうと思った。

その夜、兄と弟と三人で、父との最後の夜を過ごした、実家に泊まるのは本当に久しぶりである、子供の頃、私は良く父と共に寝た、しんしんと冷え込んだ夜はミシミシと家が鳴る、そしてびゅうびゅうと山からの木枯らしの夜は、あちこちの戸がガタガタと音を立てる、隙間だらけの旧家は寒く、音を聞きながら身を丸めて寝る、そんな時、父は背中をぴったり合せるようにと言う、その温かさは父の感触として今も残っている。

通夜というのは、ほんとうに最後の夜である、明日の朝、父はこの家を出て行くのだ。積年の想いが胸をいっぱいにする、酒を飲んだ兄は棺を叩きながら父に語りかける、父の顔が小さく揺れる、それはまるで父が返事をしているように見えた。

いろいろ話をして四時過ぎに寝た、なにかの物音に耳をすます、それは兄がまだ棺を叩きながら、父になにかを語りかけている音だった、兄は父と七十年以上も一緒に暮らしたのだ、弟と私の一八年間とは比較にならない、そこには私達の知らない思いがあったのだろう。最後の夜、兄は父と二人きりになって話したかったのだ、父が長男の兄に期待したこと、兄が父のその期待に応えようとしたこと...それは風間家を背負ってきた父と子の別れだった。

 

告別式の朝は快方に向かう大気が、まだしっとりと辺りを包んでいた、昨日の雪が庭のあちこちに残っている、長年暮らした部屋は父の書いた掛け軸やら書物やら置物でいっぱいである。先祖の遺影、お婆ちゃん、岩手のおばちゃん、千葉のおじさんの遺影が見守るなか、父の棺がその部屋を出てゆく、そして二班の人たちに見送られ、九八年の我が家を出て行く父、朝に夕に眺めた霞森山に見守られ...ああ、なんという光景であろうか...おとうちゃんもいつかは死ぬ...あの言葉のことが、やはり、そして遂に、本当にやってきたのだ、何をいまさら、いい大人が...そうも思うけれど...それしかなかった。

 

昨日からの憂いに満ちた天候は、一転して快晴になり、盆地をとり囲む山々は真っ白な雪化粧だった、父の葬儀は社会から引退した九八歳の老人とは思えない盛大なものになり、生前の活動範囲の広さを実感させられた。私は高校生の頃からバイクに夢中になり、近所に爆音を撒き散らした、その後バイクメーカーに入社し、そして今日、父の葬儀に会社から送られた花輪。父は私達のバイク狂いをどう思ったろうか、花輪はそのことの結末であるかのような感慨があった。

告別式の夜は十五夜の月が上がり、風がびゅうびゅうと鳴る夜だった、月は中天に冴え渡り、月光は郷土の山々に青く降り注いだ。  この青い月夜に父はいない、それはこれからもずっとそうなのだ...。父のいない夜明け、父のいない空、父のいない夕暮れ...これからは総て父のいないことが前提になる、それは大人になるということなのだろうか、親のいるうちは歴然とした子供という立場がある、それが無くなって初めて大人になるのかも知れない。

( 一月の月 ) 

葬儀が昨日のことになり、おとといになり、少しずつ遠のき始める...その夜毎に月の出が遅くなり細ってゆく、私はこの月を追いかけた、この月が夕月のころ、父はまだこの世にいた。この月が細くなってゆくのは、父が遠くなってゆくことの象徴、そして父の後ろ姿のように思われた。月の出が午前零時を過ぎるようになってからは、深夜にひっそりと上がっている月の静けさ、孤独感は、心に沁みるものだった。

 二三日天候が崩れ、もうあの月も見られないと思っていたのだが、土曜日の朝、千米寺の家から、京戸山の上の未明の空に、糸のように細くなった月が出ていた、この月が新月だったのは、昨年の暮れ、そして最後の日、四日は上弦の月だった、そして葬儀の夜は十五夜だったあの月が、明けてゆく空に、いまにも消え去りそうに見えていた、やがて薄い筋状の雲が茜色に染まり始めたが、月はまだその雲を透かして見えていた、日が昇れば、その明るさに呑み込まれ、月は見えなくなるだろう、本当に一月の、これが最後の月である、私にはそれが遠くへ旅立って行く父の、最後の後姿であるように思えた。

( 日常へ )

私の実質的な仕事始めは一月十二日になった、いつもの時間に部屋を出る、ゴミ捨て場に向かうおばさんに挨拶する、会社までは一キロ程を徒歩二十分くらいである、用水の通る田んぼ道には朝早くから鳥の動きが活発である、餌を求めての動きなのか、気分がいいから飛んでいるのか分からないが、いつも通りの賑やかさである、いつもの自転車の人とすれ違う、いつもの車が追い抜いてゆく、いつものバイクが通り過ぎる...当然の事ながら何もなかったかのように、いつもと変わらぬ朝の光景である、そこを歩くことの安心感、そこから癒される感じがするのは何故だろうか?、何かあった時にいつも感ずるのはこういう事である。ごく当たり前のこと、退屈なこと、意識もしない些細なこと...実はそういう日常的なものこそ、いちばん大切なことではないかと思う。

通夜の雪、梅香る父の旅立ち...桜のあと、山梨には一面に桃の花が咲く季節がくる...

 父はいまごろ何処にいるのか、ついそう思う、それはどこかに留まっているイメージではない、何処かに向かってゆくという感じである、黄泉の国とか極楽浄土という概念は素敵ではあるが科学的ではない。ではどこにゆくのだろうか、それは、はるかな時の彼方へ...そういうしかないのだ。次第に遠ざかってゆく父のことを、いつまでも繋ぎ止めておきたいと思う、しかし時間は止めようがない、だがそこには絶対的な、万物への公平さがある、時は淡々と流れ、間違いを犯さない、すべてを解決し、開放する、どんな出来事も、時の流れのなかで浄化され、過去という美しいものになってゆく、それは大いなる救いであり、そしてまた、慈悲というものにも思える。

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                              おわり

執筆者: kazama

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