JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
( 匂い )
大阪で育った引っ込み思案の次郎は,体育は苦手で勉学もぱっとせず,高校受験に落ちた。
私立高校は経済的理由で断念し、名古屋の小さい工場に勤めることになったが、家恋しさのあまり休みの度に帰る次郎を船員上がりの父親は苦々しく思った
ある平日に次郎は工場を早退し家に帰ってきた。父親は怒って今夜家に泊まることはならんと追い返した。
しょんぼりして帰る次郎を、子供時代から知っている近所の人たちは哀れんだ。。
次に帰ってきて一晩泊まった朝、次郎は何処で手に入れたか大量のヒ素を飲んだ。
血の気のない顔で口から泡を吹き、ぐったりした次郎を、父親は吐かせようと抱き起した。
そのとき不意に、久々に次郎の匂いを嗅いだ。。
それは船員時代に別れを惜しんで抱いた、まぎれもない我が子の匂いだった。。
。。拙文は最近読んだ二つの物語から印象的な言葉を組み合わせたもの。。
( 忘れもの )
小学校のころ。坂の上の家から学校まで4Km位を歩いて通っていた。
子供の足だから。一時間ぐらいかかっていたのではないだろうか。
たぶん1~2年生のある日、忘れ物に気付き,再び坂を上って、かなりの距離を取りに戻った。
タイムロスは挽回できそうになく、遅刻は間違いないから泣きながら歩いていたかもしれない
後ろから下ってきた自転車の高校生が「 どうした、乗せていくから 」と、私をサドルの前に横座りにさせた。
白いワイシャツとその両腕のなかにすっぽり入った私は、その頼りがいのある安心感に浸った。
小学校の裏門の近くで私を降ろし、自転車を漕いでいった高校生。。。
新緑のころのしっとりと曇った日だったような気がする。
遠い日の朝、高校生の白いワイシャツに包まれた頼りがいと、その清潔感が忘れられない。
( 望郷 )
私より10歳年上の兄貴の、丸山という同級生の親友がいて、私の家から坂を下ったあたりに家があった。
高校を卒業して上京したが、親元を離れての新しい生活になじめなかったらしい。
後年に東京に出た親友から兄貴に宛てた葉書を見せてもらったが、郷里で暮らす風間がうらやましいと書いてあった。
兄は農家の後継ぎの長男であり、親友は次男であるから家を出なければならない
彼は始めての休暇の帰省をし、その帰りに再び家を離れる辛さに耐えられず、思い余ったのか、上京する列車から途中下車し、故郷に向かう下り列車に飛び込み自殺をしたのだった。
なんでふるさとに向かう、その列車に乗らなかったのか。。帰るわけにはいかないという気持ちだったのか。。
たしかにその時代に次男が家に居ることは許されないことではあったろう
兄貴によると彼は甘えん坊で、小学校入学まで母乳だったとはやしたてられる程だったらしい。親にしてみればどれだけ可愛かったことだろう
しかし成長してからは快活で正義感があり、弱者の側に立つ優しさもあったという。あの丸山がなぜ、と兄は言う
家へ帰る列車に乗れなかった彼、帰りたくても帰れなかった息子の葛藤を偲ぶご両親の気持ちは想像するにあまりある。
しかし、その時代の親の立場としては、次男を独り立ちさせる緊張感から、甘い態度はできなかったことは想像できる
私のことを回想すれば、就職して府中の事業者に配属になり、郷里の山梨が近いこともあり毎週のように帰った。
ある日父が渋い顔をして「 こんなに頻繁に帰ってくるな 」と言った。。。父がどれだけの意味を込めてそう言ったのかは分からない、しかしこの父の言葉は大きな意味を感じた。ああ、ここはもう俺の居場所ではないんだ。という想い。
男である以上、また次男である以上、ここを離れて自立しなければならないのだ。それは今にして思えば寂しくも大人への転機だった。
私はその訃報が届いた日の朝の「丸山が死んだ」と絶句した兄と、かわいそうにと目を泣きはらした母の様子を覚えている。
( あれは誰だったのか。。 )
私を乗せてくれた高校生は誰だったろうという疑問は大人になってからだった。
最近になってからふと、彼ではなかったかと思うようになった。年齢差はちょうどそんなものである。
優しい彼の性格からはそのことは充分考えられる。また私のことを親友の弟だと知っていたかもしれない。
私がこのことから受けたのは人間への信頼感であり心のともしびになった。
。。。あの自転車の高校生は狭い田舎のことだから、もしかして彼かもしれない
今となっては確かめる術はないが、もしそうだったら、それはあまりに美しくも哀しすぎて、とても耐えられない。
私としてはそうであってほしくない気持ちのほうが強い
昭和30年4月8日消印 兄に宛てた手紙
執筆者: kazama
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