JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
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Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
私もその日は、数知れず繰り返した目覚めてから出勤の一連のことの、そのすべてがこれで最後というその感覚を噛みしめ、人つき合いの薄い変人の私がここまでやってこれた社風に感謝した。
寂しさと解放感がないまぜになった、人生にそうそうない記念日を無事に迎えられためでたさもあった。
それからの日々、仕事さえ終わればなんでも出来る、これまで懸案だったこともあっという間に片ずいて、余った時間にはやり残し感がある、得意だと思っていた絵を描こうぐらいに思っていた。
浮かんだのは日本百名山で、成り行きで65ぐらい終わっていたから、その気になればだが、人の選んだ山をなぞっても達成感が少ないのは山梨100名山で思ったから行動はおこさなかった。
元来が計画性のある方ではなく、計画を立てるとその他の選択肢はなくなる訳で、直前までなんでも出来るという自由を保持したかった。その論理で計画は拘束であるという考えをもっていた。
山は大概が単独だったから他人との調整も不要でいきおい無計画ですんだわけだ。
休日は限られているから悪天でもないかぎり良く山へ行った。逃したら次の休みがどうなるかわからない。
しかし退職してからはいつでも行けるという気持ちからか切迫感もない、毎日が休日となると今までのような輝きがない、拘束のなかの自由だったからこそ価値があったわけだ。
いつでもいいとなると、ちょっとしんどいことはつい先延ばしになる、その気になればいつでも、という思いがそれを助長する。テント泊の山登りというのはしんどいことの代表格であり、なかなかその気になることが少なくなった。これまではこの日しかできない、という思いが踏ん切りとなって行動できたのだ。
結局はサラリーマン時代の方がはるかに山へいった。これは極めて大きな誤算だった。
このことは何も山だけではなくあらゆることに当てはまる。
何となくものごとが進まない、膨大な写真の整理、書きたい原稿。亡き父が遺した郷土史原稿のデーター化、、、やりたいことはいっぱいあるが、期限のないことができるはずもなく、間延びしたグレーな時間が過ぎてゆく。
これまではささいな事が、たとえば誰かが訪ねてくるなんてことが大きな出来事に感じたり、宅急便が届くぐらいなことで拘束される気になる。「仕事は忙しい人に頼め」という格言が身をもってわかる。
南アルプスに日が沈み、時間が無為に過ぎてゆくことの虚しさぐらい苦しいことはない。
退職時に後輩が10年日記をくれた。日々充実した60代を送ってほしいとの思いやりである。手書きの機会は少ない時代だし当初は楷書で書いてようなんて思ったがとんでもなかった。数日おいて書こうとすると何をしたか思い出せず空白になる。するとその日が人生の中になかったような、そんな気になる。意地でも何をしたか書けるような生活にしなければいけないと思う。
仕事というものは人生の大半を占め、それが個人の願望の阻害要因であり仕方がないことだと思い、その仕事から解放されさえすればすべては解決されるのだと思っていた。ところがそうは問屋がおろさない。阻害要因どころか仕事が生活にメリハリをつけてくれて、休日の輝きと公私のコントラストをくれたのだ。
それがなくなったいま、メリハリは自分でつけなくてはならない。自営の友人に言われた「 約束は他人がからまないと守れない 」まさにそう思った。守らなくても誰にも問われないことは守れない。自己管理ということがいかに難問であるかを思い知った。その点で自営でやってきた方々には敬服する。
拘束は保護という側面もあったのだ。そして仕事という拘束は生活の安定と身分の保証を伴った。そこから解き放された自由には、飼い主のいない野良犬でやっていける気概を求められる。奴隷解放運動でやっと自由を得た人々が、再び元の身分に戻りたいという事例は多かったという。
仕事をしているとき、どこにも悪びれる必要もなく、その心の安定感はかけがえがない。手慣れた仕事ほど楽なものはなく、もしやそれが総合的にはいちばん楽な境地かもしれない。それがある人は幸せ者だと思う必要がある。
退職後の大きな誤算にぶち当たった私だったが、やることありながら進まないまま空しく過ぎる日々の苦しさから逃れるため、未消化の課題をのこしたまま、アルバイトという安易な逃げ道を選んだ。
とりあえず自己管理の苦しさからは逃れられ、また仕事の達成感も、終わって帰るときの解放感もある。人間は働くようにできているというのもあるが、それは今の私にとって自己欺瞞でしかなく、逃げでしかない。
私にはもう後がない、本来は働いている場合ではないのだが仕事の楽しさも出てきて、またどっちつかずの境地になってきた。
今日退職を迎えた彼には、迷いなく自由を貫いてほしい、そのことの重みを痛感する時があるだろうが、自由を持てあますことなく楽しめるかどうか、それこそが人間の甲斐性を問われる部分だと思う。
執筆者: kazama
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