JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
8年前の3月11日 浜松基地で訓練を見ていたらエアバンドで全機帰投せよとのコールがあった。
暫くして携帯のワンセグで津波が車を飲み込む画像に悲鳴をあげた。急遽東名に乗り神奈川に向かったがすぐ通行止めになり一般道で東に向かった。ラジオでは相模湾にも大津波警報を告げ避難を呼びかけている。一号線は全く動かず由比のあたりは右がすぐ海でみんなヒステリックになっている。私は諦めてワインディングが続き標高も高い日本平の駐車場で夜をあかすことにした。
ニュースは時間の経過とともに惨状を加え、これから日本はどうなるのかと思った。
そういう中で驚いたのは、ここがローリングのメッカらしく、この大災害の夜にも爆音とドリフトが続いたことだ、やがて車座になって楽しそうに談笑する。一体これだけの災害を気にも留めないのだろうか。普通ならTVの報道に釘ずけになるのが人情ではないか。私も若いときはドリフトに血道をあげたから彼らの行為には理解ある方だと思ったがあの晩だけは人間性を疑った。
20日すぎになって石巻に受入体制があったのでボランティアに行った。ここで驚いたのは若者ばかりで金髪やらピアスやら、一見するとイカレてるみたいに判断する若者が多かったことだ。そして喫煙率は7割ぐらい、平素の世間と逆になっていた。そんな連中とチームを組み、ともに目を見張る惨状に打ちひしがれ、家庭を訪問し、泥だし、畳や家具の運び出しをした。破傷風の危険を喚起されながら若者たちは黙々と、時には廃棄する家財の切なさに感きわまりながら作業した。
聞くと就職難で遊んでるから、せめて人の役に立ちたくてという動機が目だった。この時期のボランティアはそういうメンバーが多かった、定職のある人にはまだ時間的に無理だっのたろう。
人の心を外見で判断してはいけないと思った。そして11日夜の若者とのコントラストを思った。。
石巻と気仙沼にはあれ以来行っていない、あいつら就職できたろうか、元気でいるだろうかと思う。
あれから8年.復興支援の返済猶予期間がおわり、これから債務が本格化するという
犠牲者の鎮魂と 被災者の生活の復興を切に願います
執筆者: kazama
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