JOURNAL SKIN
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1月11日、たぶん25年ぐらい持っていたローライフレックス3.5Fを手放した
若い頃、ドイツ製の精密加工されたボディにツアイスのレンズという敷居の高さはとても手が出なかった。1955年のカメラ年鑑にF型の前のモデルでさえ18万円となっている。当時の初任給は一万円いったかどうか---国産のリコーフレックスが一万円だから桁が違う---とんでもない高価なカメラだった。
いつだったか、東京駅で京都行きの特急列車に乘った外国人の老夫婦が見送られていた。
にこやかに手を振る品のよさそうな老人の胸に、ローライフレックスが下がっていた。革ケースの前蓋が開いていて、裏地の赤が印象的だった。まだ経済の格差があり、彼の国の裕福さを垣間見たシーンだったが嫌味はなかった。ローライにふさわしい絵柄としてあの時を上回るものはその後もなかった。
アサヒカメラの広告にずーっと載っていた18万9千円という価格が恨めしかったから未だに覚えている。
やがて新宿のカメラ屋で程度のいい中古品を買い、その晩は我が家の居間にローライがあることの感慨に浸った。
プラナー75mm/F3,5のレンズは当初アサヒカメラで難癖をつけられたが充分に良く写った。12枚撮りなのでフィルム交換のたびに革ケースを剥がすのが面倒臭いが、ザックにそのまま入れられる利便性と、なによりあの老人のイメージがあってローライに革ケースは欠かせないものだった。セレンのメーターは当てには出来ないが目安にはなった。
その後プラナー80mm/28Fの220フィルム対応の最終モデルを買い足し、ローライが二台という贅沢さに満足した。6x6という画面のせいか僅か5mmの焦点距離の差が歴然とし、標準と広角のような気分で使い分けをした。
しかし生来の器材好きの私がそれだけで済む筈もなく、ハッセルだのリンホフだの、大は8x10まで行ったからローライの出番は少なくなっていた。
やがてデジタル化の並が押し寄せ、当初は無視していたがフィルムの欠点を補う画像処理や、好きな薄暮の圧倒的描写力に惹かれ、私もデジタルへの鞍替えに至った。 しかしカメラとしての質感に欠け、写真は申し分ないが所有感や撮影時の愉しみというものがない。それは分かってはいても結局はデジタルの利便性には勝てず、ストックしてあるフィルも期限切れという状況になっていた。
コレクターにはなるまいと思っていて、はたから見ればコレクションに見えても、本人は適材適所、あくまで使い分けの実用という理屈をつけていたがデジタルに押し切られては万全の布陣も虚しい。デジタルの恩恵を受けてはいるが、カメラ趣味の道楽の度合いからいったらデジタルはない方が幸せだった。
---なら今でもフィルムが有ることだし、戻ればいいではないかと言われそうだが、いったんこの利便性に触れたら、もう戻れない。 デジタル化は心と行動の矛盾を産んだ。
目先の効く人は、さっさとフィルム器材を売り払ったが私はそれが出来なかった。
このままガラスケースにでも入れておけば、立派なインテリアになるのがこういうカメラの風格である、ならいっそ飾り物でいいではないかと言われても、コレクターにはなるまいという心情に反する。どっちつかずの優柔不断がわたしの性癖であり、抱えている矛盾である。
そんな迷いのなかで久々に手放したのがこのカメラだった。
ローライはこれから誰かの手に渡るだろう、ドイツで学んだマイスターの手によりメンテされた二眼レフがこれからどんな絵を撮るだろうか。樹脂や新素材の全く使われていない、精密機械加工を尽くされた時代のあの手触りは、もしかすると私の死後も誰かの手の中で生き続けるかも知れない
執筆者: kazama
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