JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
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Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
プロミナーに萌える
美ヶ原で見かけたKOWA(コーワ)20x120(20倍,口径120mm)の観光双眼鏡。
私はコーワというブランドに一目置いている。コーワシックスという6x6の一眼レフにはハッセルと同じぐらいの魅力があった。あとコーワSWという異彩を放った広角専用機を欲しかった。
プロミナーというレンズ銘がまた別格を感じさせた。プロミナーとは卓越した、という意味らしいが太陽のプロミネンス(紅炎)と関係あるのだろうか。
この古びた重厚な風格の双眼鏡は、ここに設置され何年になるのだろう。100円で2分ぐらいだが、これは覗かずにはいられなかった。風景を見るのではなく、無論コーワの(見え方を見る)のである。
案の定、左側の鏡筒は曇っていて実用に耐えないレベルになっていた。また屋外の観光用の宿命としてピント調整も左右の視度調整もできない、故障や防水性を考慮してのことである。プロミナーの120mmものレンズの威力を発揮できない宿命のなんと哀しいことだろうか。まさに眠れる獅子と言える虚しさがある。この時代のモノ特有の重厚さはジャンルを他わずあって、今の時代が失ったものだ。
この風化したコーワは、おそらく近いうちに処分される運命ではないか。。ふと、その際は引き取ってレンズやプリズムを専門家によって磨き直せないだろうかと思う。コーワの双眼鏡がピラーに据えられ家の一角にある絵柄はまさに三つ子の魂、わたしの人生の夢である。
整理のさい、あちこちにあった双眼鏡を、一同に集めてみた。
もう20年ほど前の一時期に、焼津の遠洋漁業の漁船からの払い下げが出るという、気になる噂があったりしたが、どこに行けばいいのか分からなかった。 府中のアストロショップでNikonの20x120(20倍口径12センチ)の私好みの旧型が出たことがあったが、架台がなく、たしか25万円という価格でふんぎれなかったが、今思えば架台ぐらい何とかなったろう。その後オークションでも大型双眼鏡を見たことはない。買い逃しの最たるものがこのNikonの20x120である。
この50年近くの歳月にわたり、あちこちに置いてあるのを集めたらこれだけあった。Nikonがメイン、フジノンとキャノン。それにビクセンなどである。これだけの必要性があるかないか、、、もちろん実用的には論外に必要はない。
厳しく光学機械の見極めをしたい私の習性はいつしか対象物を見ることを通り越し,その見え味を見るという実態になっていた。像の鮮鋭さは勿論、それが周辺まで維持されるかどうか。また像面の湾曲があるのかどうか。周辺まで鮮鋭さが崩れず、また水平垂直線がキッチリした、光学的収差を厳しく排除された視野には、信仰に近いような品格を感ずるのである。
完璧な性能を追及することが、どれだけのコスト増になるのか。一般的水準の満足度が完璧から80%ぐらいで得られるとして、それを90%にするだけで価格は10倍という桁違いになり、さらに100%を目指すなら百倍にもなったりする。それでいて80%のものとの違いは一般的な多くの人には見分けがつかないことが多い。猫に小判というか馬の耳に念仏、あるいは知らぬが仏という領域と言える。
ものに拘るとそれだけ理不尽なコストがかかる。逆にいまの世の中は凝りさえしなければ安物で充分と言える。誰かが言っていたが100円ショップの装備で登山をすますとか。そういう生活もできる。
Nikonの6x20ミクロン復刻モデル。山に行くときはこれ。精密感もあり重宝している
ビクセンの20x80mm。当初は像が甘くやはり安物だなあと感じたが、今は私の眼力には不満がなくなった。ブルーの筐体が気に入っている。
フジノン10x70mm。これの見え方はコントラストと自然な発色が申し分ない
さすがフジノンレンズ。カメラでも期待にそぐわぬ描写だった
キャノン15x45mmIS(イメージスタビライザ搭載モデル) 強力なブレ止めが機能し戦闘機パイロットの表情や飛ぶ鳥の視線まで見えた。レンズ性能も申し分なくデザインは嫌いだったが主力機種として使っていた。しかし買って10年未満でブレ止め機能が壊れパーツがなく修理不能。やぶにらみのままで固定し見ることさえできない。15万近く出費して家電が壊れたような様相はがっくりきた。
サービスセンターの方は気の毒と思ってくれたらしく、光軸だけを合わせて固定しブレ止めなしの機械となった。しかしブレ止め前提で三脚穴なしという傲慢な設計。ホールディングの悪さもあって使いたくない代物になった。レンズが優秀なだけに、バックアップ体制の悪さは企業体質かと腹が立った
Nikon9x35mmIF(単独繰り出し)。ダハプリズムは視界が狭くブレやすいと毛嫌いしていたが偏見だった。コーティングが良いのか非常に忠実な発色をする。IFは防水の高級機の証であり満足感がある。ラバーコートは演出かと思ったが岩の上に置くときなど気にならない。精密感があり総合的にかなり気に入ったモデル
( 目的と手段の逆転現象 )
景色を見るのではなく、その見え方を見る、というのが異常な行為といえるだろうか。しかしそんな例はいくらでもある。音楽を聴くのではなく、その音質の良さを聴くオーディオマニア。写真を見るのではなく、その隅々までの写り具合を目を皿のようしてみるカメラマニア。
本来は移動の手段であるバイクを走らせたいから出かける、またそのサウンドがどうのこうの。古い列車に乗りたいから旅に出るたがる鉄道マニア。
デジカメでいいのに古い大判のフィルムカメラで、そのプロセスを楽しみたかったりする。それは目的と手段の逆転現象であり、実用の域はとうに超え、本来はその手段が目的になっている。
....趣味とはそういうものであり、合理性とは程遠いものだと思う。仕事は厳しく合理性を問われるべきだと思う。日々そこに行動の基準をおくのは大人の社会人として当然の態度だろう。その反動として趣味は非合理なことを楽しむことで心のバランスがとれ、ストレスから逃れたりもする。
さいきん思うのは、むかし厳しい採点をつけた見え味のものが、存外によく見えたるする。厳しくあら捜しをしてみてもよく見える。これってこんなに良かったっけ。。。なんて思う。一事が万事そういう傾向があって、どうもいろんな採点が甘くなっている。それは心が寛容になったのではなく、見極める眼力が落ちたのだといえる。視力検査では数値的に落ちていないのだけれど、それ以外の数値に現れない視力が落ちているのだ。まさに自分自身が知らぬが仏になってきた。そのことが一見不幸であるかのようだが、もしや幸せの構造かもしれない。
しかし一般的な双眼鏡で見られるのは、双眼の左右の平行が出ていないものがあまりに多い。やぶにらみ状態になるからそれを脳で補正するため、私は船酔いのように吐き気をもようし、半日も治らない。 安物の双眼鏡はたしかに酔うのである。例え僅かな角度のずれも、その倍率分は拡大される。光学性能云々のまえに厳しく鏡筒の左右の平行を出さねばならない。しかしそれも知らぬが仏で、持ち主は平気である。これも私が重箱の隅をつつくように見つめてきた、腺病質ともいえる神経質ゆえなのだろうか。
( レンズ像を網膜に結像させる )
カメラでも若い時は、その写りが気になった。レンズ性能が主体ではあるが、写真にはそれ以外にまずフィルム。デジタルでは受光センサーの性能とかボディの内面反射とか、また最終的に液晶なりプリントにしてみるのだからその良し悪しで結果はかなり左右される。レンズの良し悪し以外の要素が写真にはかなりある。
その点双眼鏡はレンズの像を直接自分の目で見るのだからシンプルなものである。
Nikonの古いレンズは黄色っぽいと言われたが、写真ではプリント工程などで補正されたり、そう露骨には解らなかった。しかし双眼鏡を年代別に見比べてみると、その黄色っぽさが順次緩和されているのがわかる。モノが黄ばむのは太陽光線下にある万物の宿命であり、レンズもその影響をうける。その改善が次第に進み最近では過剰に青っぽくなってる気もするが。
レンズものが好きと自認する私にとって、その像を直接自分の網膜で観察できるシンプルな魅力が双眼鏡にはある。ランニングコストはゼロ、ただ見るだけである、でもそのことは大事にしたい。
写真の落とし穴として世の中を被写体として見てしまうことがある。撮ったら安心してもう次の被写体を探すようになる。そのような落ち着きのない視点を自分に感ずることがあって、カメラを持たない方がモノを深く見るような気がする。どんな写真も美化された記憶には適わない。
フィルム時代には現像が上がるまでは美しい思い出に浸っていても、現像が上がると一気にしぼんでしまい、美しい残像は手元にあるつまらない写真に集約されてしまう。そのことから、手帳を一冊もつだけの旅をしたいと思った。。そのジレンマが分かっていても、元来がカメラ好きなこともあって、手元にないと寂しく、つい写真を量産してしまう。後で削除するのは億劫になるから、帰ったらすぐ、またはその場で削除する、たいがい9割を削除し、なかには全部だったりする。よくもまあつまらん写真を撮ったもんだと自分に辟易とする。それもあって動くものでも連写には抵抗がある。
そのことへの自分への戒めの言葉として、「撮るより見る」ということである。撮る前にまず観るという行為があって、そこから憧れやら美意識が湧き上がる、そこをおろそかにしては美の本質にたどり着けないのだと思う。
双眼鏡には写真のようなジレンマはなく、ゆったりと純粋に風景を楽しめる。昔のようにレンズの欠点を見つめることもなくなった。でもしかし、厳格に作りこまれた双眼鏡の、きっちり隅々まで鮮鋭で、水平垂直が厳格な像は、それを見るだけで自分の感覚まで研ぎ澄まされる気がする。
まあそれもすべて光学機械への信仰のようなもので、魅力に取りつかれた思い込みでもあるのだろう。
執筆者: kazama
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