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2013年12月05日 22時47分 | カテゴリー: 飛行機

柿の木上空のT-33練習機

─ロッキードT-33シューティングスター練習機

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ロッキードT-33練習機、この機体こそ私が飛行機ファンになったことの原点ではないだろうか。

ジェット機では間違いなく最初に見た飛行機である。T-33は昭和30年代初頭、私が小学校の頃から、航空自衛隊の練習機として日本の空を飛んでいた。

好きなところはその均整のとれたスタイルである。機首からインテイクへの流れ、全長に対する翼のスパン、その翼端の朱色の燃料タンク、パワフルではないが慎ましやかなテールエンド。ジェット機がパワーと獰猛さを身に纏う以前の、質素ともいえる部分である。そしてなにより好きなのは広々とした複座のキャノピー、ここに座って雲海の上を縦横無尽に飛び周ったらどんなに素晴らしいだろうか、という憧れは今も50年前もかわらない。新聞なのか週刊誌なのか忘れたが、先代の横綱若乃花が米軍の横田基地からT-33の後席に搭乗、三原山の火口めがけて垂直ダイブし、失神しそうになったという記事を見た。たしか土俵の鬼も大空では真っ青、みたいなニュアンスの記事だったと思う。飛行機のことに限らず、今まで感じた羨ましいという感情のなかでこれに勝るものは未だにないように思う。こと飛行機への憧れに関しては子供の時から全く成長していない。そのことは軍用ジェット機というものが、いかに敷居の高いものであるかを物語っている。

東山梨郡八幡村小学校上空

「ロッキードの練習機」の印象的なフライトシーンは50年も前の秋の日のことだ。

小学校の運動会の練習で整列をしている時だった、東の空からT33が低空で進入してきた、そのまま通過するのかと思ったら、なんと校庭上空で垂直上昇を始めたのだ。ロッキードの練習機は、ロールしながらジュラルミンの肌を秋の日差しに輝かせ、深い青空を駆け上がっていった。なぜかジェットの轟音はそのときの印象に残っていない、むしろ静かに、ただ蒼穹に吸い込まれていくという印象だった。それを見上げる小学生たちは整列も行進も忘れ大歓声である、先生も状況判断し、全員その場に座って見ろ、という指示をした。まだ新幹線も高速道路もない時代の山村の子供たち、その目前を、最新鋭のジェット機が垂直上昇していく、それは驚異的な乗り物であった。飛行機好きな私でも、このシーンがジェット機の威力を目の当たりにした最初の経験だった。今の水準で言えばT-33のパワーなど、たかが知れている。しかしあの日のT-33はヒーローだった。

私の残像の中では柿の木の上を駆け上がっていったような気がするのだが、どうもそれは私の脳の合成イメージのようだ。T-33の翼端タンクの朱色がまさに柿の色そのものだから、あのシーンに柿の実った木が登場することになったのではないかと思う。

シューティングスターの軌跡

T-33は思いのほか長命だった、初等練習機は米軍お下がりのT-6だったが、それがT-34メンターに変わり、国産ジェット練習機T-1が導入された。T-33も退役かと思われたがT-1は何故か勢力増強せず、依然としてT-33が主力だった。80年代になって国産初の超音速機T-2練習機が出現した、双発のシャープな機体は世代の違いを感じさせるものだった。さすがに、この新鋭機を後継機としてT-33は退役するのかと思ったが、本格的に退役が始まったのはT-4が配備になってからだった。

百里基地でT-33とT-4のコクピットに座ったことがあったが、驚いたのはT-33の各パーツが新品同様だったことで、とても50年を経た老兵とは思えなかった。飛行機というのは泥道を走る訳ではないからこんなに綺麗なのかと思った。入間から飛んできたパイロットに話を聞くことができたが、印象的だったのは操縦がとても難しいということだった。F-15のほうが易しいくらいだという。練習機なのにまさか、と思ったが、考えてみれば世代の違いからくる難易度なのだろう。カメラでいえば旧式のニコンFよりデジタルのD4のほうが能力は桁外れなのに取扱いは簡単なことと一緒なのだろう。後継T-4のコクピットは広々して腰ぐらいまでキャノピーで真下まで視界がある、さぞかし快適なフライトだろうと思った。しかしどちらに乗りたいかとなれば、それはもう当然T-33である、旧人類としては、T-4では遊園地の飛行機に乗るように感じてしまうのだ。

gunbey.door.open!!

 練習機として退役してからは、連絡機としてたまに飛んでいる姿を見ることがあった。それもいずれは退役してT-33が日本の空からいなくなるのはいつだろうかと思っていた。しかしなぜか余生といえる段階になって、事故のニュースが入ってきた。パイロットが殉職したのだが、そのときの交信が、ガンベイドア、オープン(gunbey,door,open)というコールだったのだ。P-80戦闘機を改造したT-33は機首の機関砲の付いていた部分にカバーを付け、空きスペースを物入れとして使っていたようである。そのドアーが飛行中に開き、エアブレーキ状態で制御不能になった上での事故だった。その交信はT-33のルーツならではの悲しい響きだった。

それから数年後、やはり入間所属のT-33が、飛行中にコクピットで火災が発生し、パイロットは住宅地を避けようと河川敷まで機体を誘導したため脱出が遅れ殉職した。その際に送電線に接触し切断したため、80万世帯が停電するという事件になった。報道では住宅地を回避したことには触れず、送電線を切断したことを強調していたようだった。首都圏の生活が一時的にマヒするという大事故になったため、残存するT-33は全機飛行停止になり、老朽機でもあるのでそのまま退役することになった。百里基地に入間所属のT-33が置いてあったが(今もまだ居るのだろうか?)、移動中に飛行停止になり、入間へのフライトも出来なくなったため、そのまま百里で退役になったそうだ。

小学生の頃からの憧れのT-33が大事故で引退するというのは誠に寂しい結末だった。T-33は日本人にとって初めてのジェット機だった。これほど永く日本の空を飛んだ飛行機はないだろう、本来ならば穏やかな余生を送り、惜しまれつつラストフライトの日を迎えてほしかったと思う。

いま、T-33は基地のゲート付近に展示してあったり、たまに公園にあって子供の遊び場になったりしている、八幡村の小学校の上空を垂直上昇していった、あのT-33は解体されてしまったのだろうか。そのパイロットは、今は80歳前後になっている筈である。老いたパイロットはあの日のことを覚えているだろうか、校庭に小学生たちがいて、見上げていたことを知っていただろうか、できることならありがとうを伝えたい。

執筆者: kazama

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