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2014年11月25日 05時12分 | カテゴリー: 飛行機

Forever F4 PhantomⅡ

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    11月23日の各務ヶ原の航空祭にブルーインパルスが来ないとの情報があり、迷っていた私はそれで行くことに決めました。多分ブルーの穴埋めとしてのフライトが見られる期待と、混雑が緩和されるのではないかと思ったからです。    私はブルーインパルスのような統制の美しさよりも単機での荒削りなフライトが好きです。期待に違わず、午前、午後と二度にもわたり6機のF4のフライトが見られました、ブルーの欠場は築城基地のイベントと被ったためらしく、今回だけのことでしょう。私にとってはかえって幸運なことでした。    あと何年、私達と共に歩んできた老兵F4をみられることでしょう。

    以下、数年前にF4を振り返って書いた原稿を掲載しました


(    妖怪の時代    )

    この飛行機の存在を知ったのは50年程前の航空機年鑑の写真だった、当時の軍用機を網羅した分厚い本はたしか400円だった記憶がある、当時の小学生に400円という金額は高値だった。就職したばかりの姉が奮発して買ってくれたから覚えている。表紙はF-8だったことと、内容にはまだ米軍供与のTBFアベンジャーが現用機として日の丸をつけて載っていた記憶がある。

    ファントムの写真はグロテスクに感じた、グラマラスな曲線とボリューム感、翼端の上半角、さらに異様な尾翼の下反角に嫌悪感を感じた、「FANTOM」を辞書で引いてみると「妖怪、魔法」だったから、まさに的確なネーミングだと納得させられたものだった。当時のデザインのトレンドはシャープなものだったから、私はF11やF-8、それに空軍のF-105が好きだった。F-104も好きだったがそれはデザインというよりコンセプトの方だった。それから見るとファントムは圧倒的な量感だった。複座の戦闘機というのも驚いたし、それを支えるのは大推力の双発だったから、なんと豪勢な飛行機なのだろうかと思った。感覚的についていけないから好きにはならなかったが、時代を呑み込むその存在感にはやがて王座につくことの予感を感じさせた。

(    畑の上のF-8クルーセイダー    )

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    当時の海軍の主力はF-8だった、この機体の個性的だが端正なスタイルも好きだった。「十字軍」というネーミングがまた的を得ていて、どこか真っ当な騎士道とか正義感を感じさせる機体だった。    それを見たくて高校生の時、バイクで山梨から厚木に何度か行ったのだが、日曜日しか行けないので殆ど飛ばなかった、まだダートの県道脇で、ただぶらぶらと過ごすしかなかった。消火訓練用と聞いたが、滑走路南端脇のB-26の残骸にカラスが止まっていたりして退屈な時間だった。夕刻近くに南の畑の上空からF-8が帰投してきて頭上をかすめて着陸していった。それだけで大満足して山梨まで帰っていったのだから我ながら健気なものであった。その細身のF-8が巨漢F-4に政権交代し、厚木は豪勢なF-4の時代になった。

(    NF厚木 黄金時代    二つのF4    )

    F4になってからは横浜に移住したことと重なり、厚木にはよく通った。当時の厚木の陣営はRF-8、A-3、A-4、A-6、A-7、S-2、EC-121(これは大好きだった)という豪華メンバーがロービジ以前の派手な部隊マークで丹沢山塊を背景に飛び回ったから見ごたえがあった。私はそんなフライトシーンを撮りたくて、カメラはニコンF2にレフレックスの500/F8が安かったから買った。しかしピントは浅いし無限遠は保持しずらくブレやすいしで、ろくな写真は撮れなかった。

    その後ニコンの一眼レフもF-4という世代になり、そのF-4というコードNoも気に入って買った。それが面白いことに両機のキャラクターも似通っていたのも大いに気に入った理由だった。前代のF-3はスリムな正統派のデザインと熟成した手堅さで保守的なユーザに人気があった。しかしその後継のF-4は衝撃的な様変りだった。圧倒的なボリューム感で価格は一気に倍以上、当時軽蔑されていたAFを搭載し、AEのモードも多様だった、ファインダー交換、モータードライブも3タイプあり、着せ替え人形のようだった。液晶表示の時代になっていたが、プロの保守性に対応してダイヤルを残し、オートとマニュアル、そしてデジタルとアナログに配慮し、これでもかの対応をした。時代の変わり目という苦難を背負ったという局面もあったが、結果として近代性のなかに古典的な風格を感ずる、戦艦のように重厚なカメラになり、倍以上の価格も仕方なく思えるものになった。

    F-4ファントムの存在感もそれと似たイメージである、あのボリューム感は勿論、時代的にもアナログ時代からデジタルへの変革という複眼を強いられたのではないだろうか。

F-4のコクピットに座ったことがあるが、乗り込むとき計器を踏みそうなぐらい狭くて複雑である、後席はさらに凄いありさまで、前方視界は無きに等しく、操縦桿はあるがとても着陸は無理だと思うほどである。F-15のスッキリして単座でも二人乗れそうなコクピットとは隔世の感がある。ふたつのF-4に思うことは、共に時代の節目に、持てる精一杯の技術を盛り込んだであろうモンスターという迫力である。

(    ドラッグシュート    )

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    厚木でのシーンでF-4の重量を思い知ったことがあった、二機で離陸したうちの一機がトラブルだろうか?何故かターンして上空で旋回をはじめ、そのうち燃料放出の弧を描きはじめた。やがて降下して着陸したが、ドラッグシュートが開くと同時に外れてしまった、パイロットはそのことを知ってかしらずか、F-4は何事もないように滑走していくかに見えたが、やがて行き足が止まらない事態にフルブレーキだったのだろう、パンパンと4回のタイヤの炸裂音がし、南端の県道に迫ろうという位置まで滑って止まった。機体は白煙に包まれ、消防車が急行したが火災には到らなかった。翌日の新聞には「オーバーラン、あわや大惨事」という内容の記事が出た。いつも見慣れた、大して効いていないように見えるドラッグシュートなのだが、重いF-4を止めるためには必須の装備だったことを認識した事件だった。

(    決算とファミリークルーズ    )

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    もう30年近く前になるだろうが、記者だった弟に空母ミッドウエーに搭乗するイベントに誘われたことがあった。しかし丁度会社の決算で休めない、どうせ軍人の家族とプレス向けの行事など大したことはないだろうと思うことにして行かなかった。しかし、これが間違いだった。横須賀を出航したミッドウエーは大島沖に向かい、なんとそこで発着艦訓練を公開し、洋上で厚木から飛来した機体を含めデモフライトを実施したというのである、当事NAVYのF-4といったらもう、私にとって超セクシーな存在である、それが無法地帯の洋上で、超ハイスピードローパス、3000mのループ、ソニックブームなどお構いなし、傍若無人のフライトを行ったのだ。さすが粋な米海軍の仕業である、ミッドウエーは洋上で日没を迎え、横須賀に帰港したのは夜になっていたという、、、、。

    これを逃したことが痛恨でなくて何だろう、来年こそと思ったが、その後二度と、そういう機会はなかった。その後、弟の体験談と写真が誌面に載った、A-6のコクピットに乗った弟がパイロットと話している写真だった。、、、、決算が何だろう、優柔不断な私の、悔いて余りある後悔のなかで、これに勝るものはない。

(    VF161-NF101-厚木RW19からのエアボーン    )

    厚木のファントムはF-4BからS型まで、20年程の駐留だった、その間カッコよかった塗装がいつしかロービジという潮流によりグレイの冴えない外観になったのは残念だった。NAVYのF-4が厚木から去っていったのは1986年の四月のことだったが、トランスパック(大陸間の飛行)に備えての訓練が行われるなかで、退役の記念で一機だけ旧来の塗装を復活した機体があった。それはROCK101というVF-161のF-4Sで,私の一番好きな黒の尾翼に赤の電光が走るデザインだった。101の増槽には引退を惜しむ厚木のクルーたちがサインを寄せていた。F-4のラストのテイクオフは是非見たかったのだが平日だったので行くことは出来なかった。後日「航空ファン」にその日の記事があった。最後に厚木をエアボーンしたのは、そのROCK101だった、南に向かって、エアボーン後、上げ舵を取らずにフルアフタバーナで加速し、私達がたむろした例の県道を高度20ft(6m)で突っ切って行ったという。写真によれば見物のトラックの屋根すれすれである、その後急上昇し、J79の轟音を残して南の空に消えていった。それが20年に及ぶF-4が厚木を去っていった姿だった。    ROCK101にとっても、それがラストフライトだった、空中給油を繰り返し太平洋を渡ったROCK101はミュージアムに展示されたようである。今もNF101は、あのシックなカッコよさでミュージアムにいるのだろうか、出来れば訪ねてみたいものだと思う。

(    空前絶後 ブルーエンゼルF4来日    )

    F-4のことで悔いが残ることは他にもあった、ブルーエンゼルを見なかったことである。折角来日しながら一度の公開で騒音苦情が殺到し、残ったフライトは総てキャンセルされ、遺恨を残したブルーエンゼルは二度と来日せずに今日に到っている。F4のブルーは間違いなく歴代の頂点だった、あのヘビー級、しかも操縦の難しいと言われるF4での密集編隊での究極のコントロールがどれだけのものか、、、、それは想像を絶する難度だったろう。CO排出量云々される時勢のなかで今後二度とあのような大型機による曲技飛行は実現しないだろう、そして騒音苦情が殺到したという12基のJ79によるアフターバーナーの咆哮が、いかに凄まじかったのかも、今となれば想像するのみである。

(    F-4EJ    )

    平成21年の現在、幸いなことに日本にはまだ航空自衛隊のF-4EJが、かなり存在している。このことは世界的にも貴重なことである。全機がすでに30年以上の老兵である、腐食が進み、部品の調達の問題も顕在化し、やりくりはかなり大変になっていて、廃却した機体も部品の供給源になっているようだ。しかし米軍でもそうだったように、F-4という飛行機は当事者たちにも愛されている。老兵F-4を飛ばす、このことに関われることの幸せは私のようなファンからも羨ましいことだ。そんな状況のなかで昨年302航空隊が百里に戻ってきたのは嬉しいニュースだった。イベントなどではまだ迫力あるフライトを見せてくれる、そんな時いつも見せ付けられるのがF-15との対比である、F-15はミリタリーパワー(A/Bなし)で軽く離陸し、テールスライドのような旋回を見せ付け、20tを超える余剰パワーで上昇する、その姿は余裕たっぷりで力んだ感じがしないので気品さえ感ずるのだが、ツンとすましたような、無表情な素っ気なさという風にも見えてしまうのだ。反面F-4はA/B全開で離陸し、スモークを曳いた機動には重量感があり、荘重なものを感ずる。F-4のそんな姿を見ると胸が熱くなる、今後いつまで見られるのだろうかと思う。そのF4も、デビュー当時は軽快な操縦性と言われていた、当時のF105や104との比較であるからそれも無理もないことではある。

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    当時の新鋭、妖怪ファントムに馴染めなかった私だが、いつしかファンになっていた、それがいまも存在している、よくぞここまでと思う。累計5000機を越えたF-4だが、その本当のラストの機体が航空自衛隊のF-4EJなのだそうだ、任務を解かれたら、ラスト、オブ、ファントムとして永久保存して欲しいものである。

(    Forever F4PhantomⅡ    )

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    幼い頃から飛行機ファンだった私のなかで、F-4の存在は、まさに中核を占めるものであった、そして何といってもその頂点はNAVYのF-4である、F-4はそのために生まれたのだ。F-4にはNAVYという文字がいちばん似合う。ROCK101が飛び去ったとき、私のなかでのF-4は一旦終わってしまったのである。後継のF-18には何故か心を満たしてくれるものがない、そう思っていたとき突如F-14が厚木にやってきて駐留した。グラマン社のファンである私には、その隙間を存分に埋めてくれる存在だった、F-14こそF-4の後継にふさわしい充実感があった。しかしそのF-14も早々と全機退役したいま、やはり私にはF-4なのだ、F-4は小学生だった私とともに時代を歩んでくれた、F-4はいつも私のヒーローだった。

    残るF-4EJもさすがに老境であり、私と同じ境遇だ。F-4EJが退役するとき、どれだけの人が様々な思いを寄せるだろうか、F-4という飛行機が、この大空を飛ばなくなったとき、私の飛行機ファンという長い道のりも終わるような、、、そんな気がするのである。

(   おわり   )

執筆者: kazama

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