JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
この絵は大好きだったF105を高校生のころ描いたものだ。
飛行場のない当時の山梨の高校生にとって、ジュラルミンの地肌を輝かせ、高空に飛来するサンダーチーフの魅力は異次元のものだった。
( すさんだサッド )
F-105サンダーチーフという機体は横田のボスという存在感があった。
(雷の親分)という名前がいかにもふさわしい。開発コンセプトが核爆弾による攻撃というのだからすごい。
通常爆弾の搭載量はなんとB-17と同等というのだから驚く。
F(戦闘機)という冠にはどこか騎士道とか武士道を連想するが、この105には似合わない。
運用面でもベトナム戦争の北爆という悪役を引き受けたのだから生まれも育ちもすさんだものだった。素性は隠せないもので、見てくれは腰高でスマートなのだがどこか洗練されていない、インテイクの形が過激だし垂直尾翼が段付きなのは異様な造形である。冷血で切れると何をするか分からないような怖さ、見るからの悪漢というより精神を病んだ凶暴な殺し屋、、、そんな例えは言いすぎだろうか。
その凶暴さを支える心臓もまた暴力的だった。知的な双発ではなく、粗暴な単発大出力だった、その咆哮はすさまじく、アフターバーナーの炎は10mにも達する程で、まさに雷神というにふさわしい。横田のエンジンテストの音が新宿まで届いたというエピソードがあったぐらいである。
さんざん悪口を言っておいて、私はこの飛行機の大ファンである、軍用機というのはどこか悪っぽいのが魅力がある、リパブリック社にはそれがある、大戦機のP-47サンダ-ボルトの豪放さは日本人にはないセンスである、F84なども映画で敵のミグ役になっただけにF86に比べて悪っぽい。そしてF-105のヘビーさとダーディさ、そして単発ゆえの脆さは男っぽい魅力と危険性に溢れている。
( ソニックブーム )
当事は甲府盆地の上空も訓練空域だったから連日のように空戦訓練が行われていた。
機種はF-100,RF-101,F-102,海軍ではF-4Dスカイレイ,F-8U,A-4,F3H等だった。横田からも厚木からも離陸すればすぐの空域だから、空軍とNAVYが入り乱れていた。高度はかなり高いので殆どはコントレイルを引いたから空は巨大な円がいくつも描かれ、真っ白になった。平面でのドッグファイトが殆どだったが、円周から離脱し、降下して加速する場合もあった、遠目にもすごいスピードになり、やがてドーンという爆発音がやってくる、それがソニックブーム(音速を超える時の衝撃波)である。時には窓ガラスが割れたとか、ニワトリが卵を産まないとかの被害があったようだ。授業中などにソニックブームがくると、飛び上がるほどビックリしたものだった。私は授業そっちのけで、その衝撃波の主を見極めずにはいられなかった。いまは陸上での超音速は禁止されているが当事はお構いなしだった。
F-105を最初にみたのはそんな高空での訓練中のケシ粒ぐらいの姿だった、肉眼では判別しにくいので双眼鏡は必須アイテムだったが、視野の中に特徴あるインテイクの形を発見した時は、いよいよ日本にも105がやってきたのかと興奮した。
そんな超音速機の訓練の繰り広げられる大空の下、昭和30年代の山村には、まだ牛馬が田を耕し、荷車を引く光景が展開されていた。当事の米国の威光と日米の経済格差は今日の比ではなかった。
今になって考えてみればそんなドッグファイトのシーンを見られたのは得がたいことだったと思うのだが、当時は高空のケシ粒ほどの飛行機しか見られないことに欲求不満を感じていた。
( 横田のチンピラ )
16歳になって二輪免許を取った私は、年上の従兄弟のヤマハYD-2を借り、友人と二人で意を決して横田をめざした、中央高速はまだ開通しておらず、甲州街道を横田まで走るのだが、ろくな防寒着もなく、おまけにノーヘルだから寒くて長い道のりだった、かじかんだ手指をエンジンのフィンで暖めながら走った。
当事は三軍記念日という催事があり、年間唯一の基地の開放日だった。
横田の正門についてみたらオープンは午後からだった、仕方なく飛行場の周りをぶらぶらし、見通しのいいフェンスの所で時間をつぶした。しばらくするとバイクに二人乗りをした地元の兄ちゃん風の男が話しかけてきた。最初は愛想が良く、何故か私の学帽を見せてくれと言い出した、怪訝ではあったが手渡すと、「これ、くれないかなあ?」といいながら校章を剥がそうとするのである。慌てて制止してもニヤニヤしながら手は止めない、校章を取られたら大変である、それを知っての嫌がらせである、無理やり帽子を取り戻そうとすると様相が変わってきて、「やんのかよ?」という流れになり、凄んできた。
私はえらいことになったと思ったが、友人はそれに怯まず、あくまで紳士的に帽子を返すよう迫った。普段は静かな友人の頼りがいには驚いた。兄ちゃんは帽子を返す代わりに、フェンスを背にして凄んだ。
「俺はこの辺りではちょいと名が知れてて、誰も知らねえ奴はいねえんだ」という定番の台詞を言い残して走り去っていった。なんとも後味の悪い屈辱感を感じた。思えば山梨ナンバーのバイクに、学帽を被った田舎の高校生は、憂さ晴らしの格好のカモだったのだろう。基地の町は恐ろしいから安易に近ずいてはいけない、そうは聞いていのたが、こういうことだったのか、と、私達は意気消沈した。
ゲートがオープンしてからも、気が晴れなかったが、展示機の内容はさすがだった、厚木からのF9Fはこれが最初で最後だった、F-102、F-100、C-124はコクピットに梯子で登るのに驚いた、それから何とB-47の離陸があり、あまりの黒煙に驚いた。そして105はエプロンにずらりと、遠くが霞むほど並んでいた、いずれベトナムへ行くのだろうが、横田にこれほどの戦闘機がいるのには驚いた。
観客は外国人が多く、やはりフェンスの中はアメリカなんだなあと思った。背の高い外国人に囲まれ、みんなが南を向いていると思ったら、そちらからF-105が突進してきた。高度は50mくらい、スピードは800Km/h程だろうか、無音だった。いきなりバーンという音がして管制塔を通過したあたりから引き起こし、急上昇中に二度ほどロールし、あっという間に低い雲に消えていってしまった。その間10秒ぐらいだったろうか、それが総てだった、あまりにあっけない105のデモだった。そして後にも先にも、それから二度と105のデモを見ることはなかった。その後の105が辿った運命を考えれば悠長なデモフライトなどという状況ではなかったのだろう。
( 北爆 )
実際105のパイロットにとって北爆の任務は重苦しいものだったに違いない。マッハ2級と言っても爆装すれば身重な亜音速機である。その危険性、頻度ともに高かった。
ベトナム戦の航空機といったらF-105である、ニュースフィルムでもよく出てくるし、肉親が行方不明とか、捕虜になったという話の搭乗機がF-105だったという事例は多い。F-105は各型併せて833機製造されたという、そのうち半数以上が北爆で失われたというが、その他諸因を含めると80%近い損失だったという見方もある。
そこまでいくと凶暴な雷神も絶滅種的な悲劇性を帯びてくる、ジェット機のなかで、これほど失われた機体はないだろう、それが私の好きな、豪放なサンダ-チーフなのだからより哀しい。
( コントレイル )
私のなかでF-105と比較になるのがレーシングカーのF1である。自分自身への問いかけをする、F1のトップドライバーとF-105の無名のパイロットという選択肢があったらどうだろう?、私は無論後者である、境遇は大金持ちとベトナムで撃墜される運命という落差になってしまうから、純粋に行為のみの比較ではある。V12、500PS強のパワーの加速Gは目もくらむだろうが、F-105の狭いコクピットに座り、右手のスロットルを押し、アフタ-バーナーの耳を聾する雷鳴とともに雲を突き破り、蒼穹の空に駆け上がる、私の憧れのなかで、このことに勝るものは未だにない。無論今日のF-15などの方が上昇力は優れている、しかしサンダーチーフならばこそと思う、それはクラシックカーで峠道を走るのと同じことなのだろうか。
これほど好きだったF-105だったが、間近でみたフライトは三軍記念日のD型のデモと、後日再びバイクで横田を訪れ、諦めかけた夕闇せまる頃のフルアフタ-バーナーのテイクオフ(G型だったと思う)の二回だけである。併せて二十秒にも満たない、両方とも暗雲垂れ込める日だった。
山梨の高空の青空にキラリと光りコントレイルを引いていたのは、本当に綺麗だった。過半数が撃墜されたという事実の中で、私の見た105は生き延びたのだろうか?。近代の飛行機の中で、そんなことを思わせる飛行機はサンダーチーフぐらいのものである。
生まれた時が悪いのか -----という唄の一節があった、
サンダーチーフよ、貧乏クジを引いちゃったなあ----- それがファンのつぶやきである。
執筆者: kazama
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