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2018年06月12日 16時22分 | カテゴリー: 登山

 山の時間 三角コンバと源次郎岳

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日川尾根の西支稜(仮称)を一通り歩き、1116m峰から三角コンバの途中まで未踏なのが玉にキズなので歩いた。

1116峰の南稜はこれで3度目ということになり我ながらよくもまあこんな地味の極致を歩くものだと思う。


1116峰から一旦はコルに下り次第に高度を上げながら見えなかったアップダウンを繰り返し高度を上げてゆく。案の定の屈曲もあり案外時間がかかった。

以前歩いた龍門峡から上がって来る尾根と合流し古部山という標識があり、マイナーとはいえ登山道になった。素晴らしい静寂の路を辿り三角コンバに着いた。

これで勝沼の深沢発電所からの長い尾根筋とここまでが繋がった満足感に浸る。

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三角コンバは日川尾根南部の盟主というべきピークで家から東の空にあって時には月があがる山である。そんな時にはこの山が動物たちの月見の宴で賑わっているように見える。

想いを込めて行ってみればそこは何の変哲もない小平地にすぎない。。けれど決して落胆はしない。むしろその変哲のなさにこそ普遍的な教えがあるように思える。

遅くなったお弁当を広げる。あの東の空に見える三角コンバに今こうして居る。。

ただそれだけの、しかしそれで充分な、そしてこれ以上望むべくもない幸せがある。

幸せとはささやかなほど自分だけのものであり、しみじみした喜びがある。

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( グロテスクとは )

 三角コンバの尾根筋には枯れた巨木が何本もある。そのいずれもが苦悶の表情に見える。植物が生きている時には見られなかった表情が出てくるのは何故だろうか。。

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植物は移動できないという宿命があり。生れた場所をどんな不利な条件でもそこで生き延びるしかない。そして寿命が尽きてその場所で死を迎え死骸も野ざらしで風化に任せ、再び生まれた土地に吸収されてゆく。

その選択の余地のなさと、その生き様は究極の適合といえる。それゆえの苦悶の表情なのだろうか。

表情と言ったけれど、そう見えてしまう何かの因果がある。植物の節の位置がちょうど動物の目の位置だったり裂け目が口のように見えたり。。なぜかその造形が動物に似ている。

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おそらくそのことは長い進化の過程での順応であり合理性ではないだろうか。

動物との類似性は共通の力学、つまり重力の影響を受けていることによると思う。その形相は言ってみれば生命への未練であり怨念のように見え、とてもグロテスクである。生きる、という行為は本来がグロテスクなものではないだろうか、それは肉食をはじめ、他の生物に依存した生きざまになる宿命を帯びている、いわば食い合い、そして弱肉強食というルールである。

いくら美しい人でも、その生を司る内臓機関はグロテスクに見える。 なぜ生きることの核心部となるとグロテスクを感ずるのか。。それはあまりに根源的で無視できない強制力があるからではないか。その迫る力、存在感はもしかして美ではないか、ある日突然、美に変化するのではないかと思う。グロテスクとは古代ローマでは美の様式の一つであったというから、その要素は充分にある。

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( 森の意識 )

 動かない死と生が混在している空間は独自の空気感がある。

一人でこういう森を歩いていて思うのはどこか「見られている」という感覚である。何に見られているかと言えば樹木からだけれど、そのなかを移動して去ってゆく人間への眼差しを感ずるのである。むろん思い過ごしには違いない、しかしそれがまったくないとも言い切れない。

いぜんロシアの科学者が植物の意識について述べていた記憶があるが、生物である以上生体反応はあり人間の言う意識ではないにしろ、なんらかの自覚はあると思う。それが背後から見つめられている感覚になるのではないだろうか。

( 山の時間 )

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 このところ通った日川尾根の中ではいちばん知名度の高い源次郎岳に登った。

久しぶりに単独ではなく、一行の中には昨年の閉山日の最終バスで出会った印象的なファミリーがいた。

バスを降りてゆくのを見送るとランクル40に向かうのが見え、それまでのやり取りといい,さりげない日常感が幸せを凝縮したように見えた。幸せというのは降ってくるのではなく自分で掴み取るものでディティールはそれぞれでいいのだと思う。

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スパルタンなランクル40で山に向かうというのは様式美といってよく、同好の私としては幸せの図式としてそれでないと意味がなくなる(笑)ほどの重要な要素である。同様にバイクで山に向かうということにも潔さとダンディズムを感ずる。

その40のファミリーとはこれきりと思っていたら、友人が南アルプス南部の笊が岳で会った偶然が私との再会という偶然に繋がった。偶然とは何だろうか。。ランダムネスというとおり、そこには法則性はなく、確率論の世界になる。再会の確立を条件を設定しなければほゼロだろうか。少なくとも登山者という括り、さらに笊というマニアックな山を志向するとなれば俄然絞り込まれ、確率は上がる。

この再開はひとえに笊が岳というフィルターを経たものであるから、単なるランダムネスとも言えない。

笊のおかげではあるが、それは笊の意思ではない。。ここが自然とのつきあいの蓋然性ではないだろうか。

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( 人生楽ありゃふもあるさ )

 源次郎岳に以前来たときは中学生の娘と、息子はまだ小学校低学年だった。

まだ冬木立の春先だった記憶がある。息子がおじいちゃんとよく時代劇をみていたせいか頂上へのアップダウンを称したのか、水戸黄門の「人生楽ありゃふもあるさ」と歌った。

娘がその「苦もあるさ」の発音がおかしいのを指摘すると

「 く、ではない、ふ、なんだ 」と言い張った。まだ意味ではなく音で理解していたのだろうが、娘が「その、ふ、ってなんだ」と笑ったやりとりが蘇った。。

克明に、落ち葉のかさこそという音と、そのニュアンスまでが。。。

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緑濃いその同じ道で、私はその日のことをなぞり、かみしめた。

いま娘は2児の母となり、小学生だった息子は関西で働いている。

源次郎岳を再訪するという、一見僅かなこの間に、私たちにそれだけの時が経過し、家族の状況も変化した。

しかし山は変わらない。そのことが山のありがたさと思う。

源次郎岳への稜線の道は、あの早春の、愛おしい日の記憶を保持してくれている。

(F)

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執筆者: kazama

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