JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
目眩が軽減したら欲がでてハイキングにバイクで行ってみることにした。
バイクと言えばバランス感覚を問われる最たる乗り物だから用心して走り出した。
ところが車のような違和感が全くない、数か月ぶりだというのに驚いた。
違和感と言えば久々のヘルメットがこんな重かったのかと思ったぐらい。。
山への林道に入ると台風24号の復旧なのか工事をしていてブルが塞いでいた。
親切にも寄せてくれようとするから,少しばかり見栄を張って30センチぐらいの脇を通るからと合図した。
路面は掘り返してふかふかで傾斜もあり下手をするとスタックする。
作業する3人が手を休め私の腕のほどを値踏みする。これは失敗出来ないぞと緊張する中に、病み上がりでの切れの悪さがよぎった。
気合をいれてトライして見事クリーンでほっとした。
その後の林道も普段と同じ感覚だった。四輪は理屈と経験値で乗れるがバイクはより動物的な感性で乗るように思っている。
しかし四輪より病みあがりのハンデを感じないのは何故だろう。これも経験値で乗っているのだろうか。
二輪の平衡感覚といっても四六時中バランスを取っているわけではなく、車輪の回転によるジャイロ効果やキャスター角は直進性をもたらし、何もしなくてもバイク自らの安定性はある。
ウイリーに凝っていた頃、習熟してくるとバイクは勝手にウイリーをする性質があるような感覚があった。乗り手の私は、そのきっかけを作るだけで後はバイクの邪魔をしないことが肝だと思った。
動物と違うのは人間は理論があってそれを体で実践する。逆に身体感覚を理論として構築し、より定着させる努力をする。
スポーツは理論と実践の相互作用での能力向上の場ではないだろうか。
( 移動した三角コンバ )
崩落で通れなかった林道が復旧し、牛奥峠まで行くことができた。
ならば今春に未踏の尾根を辿った終着点の三角コンバまで行くことにした。昨年はここから尾根を適当に登り、妙見尊の祀られた山のピークから展望のよい境沢の頭をへて南下したが、今回は作業道に手を入れたのか、巻き路にテープや道標を設置、地元の有志によりトレランのコースとして整備されたらしい、マイナーな山域にこうしたルートができるのは嬉しいことだ。
もうすっかり冬木立となった道をかさこそと歩く、この時期になると鳥の声もしない静寂そのもの。。アルプスの岩稜より、こういう低山が好きになったのは必然の成り行きだと思う。
緩いアップダウンを繰り返し、真新しい三角コンバの標識があったが、私の思うそれはもう一つ先の顕著なピークである。そこは尾根が直角に近く曲がるところ、角のことをコバと言うから三角コンバという地名に納得性があった。
しかしこのピークに付け替えられたということは、ここが本来なのだろうか。。
私にしてみれば家から東方の顕著な三角錐であり、月出ずる山がそれであってほしい
妙見尊の伝説の石碑 ご神体はきわどい岸壁の途中にある
バイクを置いて歩き始める 尾根に登らず新たなトラバース道
山は墓場でもある 巨大な死骸が横たわる
さながら巨大なエビ。。生物はなぜか形状が似る。。同じ重力下故か。。
生きることはグロテスクでもある(笑)あるべき所に目のような穴が。。
この恐るべき形相。。生きることの苦難だろうか
なぜか死後の姿に 生への執念がみえる
近ずくのがためらわれるような姿
谷あいの日没は早く 還れ帰れと追われる気配
( 分相応な欲望? )
帰路はいつもの修正で辿ったルートを目視でなぞり、体感が残っているうちに傾斜感や距離感を整合する、そのことによって未知なルートの難易度の見積もり能力が向上する。
やはり習性で登れそうな尾根を探す。三角コンバに西側の尾根から登りたいものだと思っていた。
砂防ダム建設時の廃道をバイクでアプローチすれば良いルートを模索できるかもと、落ち葉でふかふかの廃道につい入っていく。。。
何のことはない。リハビリなんて何処へやら、もうすっかり以前の習性に戻っている。
つい二週間ほど前は、もう山へ行けないかも知れない、ましてバイクなんて。。。そう思って案外簡単に諦められる自分に驚きもした。
それがどうしたことか、ちょっと回復しただけでもう以前の欲望がカムバックしている。
山では未知の尾根筋を辿りたい。そしてバイクはまだ未練をのこす、年甲斐もない技(笑)
こうしてみると欲望は果てしないものだと思う。それを左右するのは哲学ではなく、それを許す状況があるか無いか。。ひとえにそこに懸かっているのではないか。
結局は行くことになる
行けるうちは行くしかなく、止められない
結局はこうなるのも分かっている
これぐらいのカウンターを切れたら。。
転んだバイクの美しさに惚れ惚れと眺める
地味の極みと思っていたが今となれば身の丈の相棒
今春登ったキリガ尾根が見えた。半年前なのに、もう美しい過去、心の糧
控えめなパワーがトラクションを生み、ハンドル切れ角も有難い
まさに山バイクというコンセプトに相応しい
さらに軽量なトリッカーというバイクが脳裏に浮かぶが
この年齢で新車買って、あと何年乗れるのか、と思い諦める
娘が置いて行ったこのセローが、私の最後のバイクでいい
( F14トムキャット )
私の欲望なんて知れていると思うが、それは現在の経済状況という背景でのことであって、もしも億万長者になったとしたら話は別である。
欲望は状況によっていくらでも湧いてきて、お金なんていくらあっても足りないと思う。
といってもベンツだのフェラーリとか、ましてローレックスだの、そして豪華ホテルとかグルメには行かない、そういう芽は自分には無い。
そんな、はした金ではすまないから困る、私が大金持ちになったら、第二次大戦の戦闘機が欲しくなるだろう、F6FかF8F。。グラマンファンの私にさらに金があったらF14トムキャットを民間人として所有し、飛ばしてみたい、これは複座だから家族も喜ぶ(笑)
さらに金があったらスバル望遠鏡を超える有効径10mの光学望遠鏡。。いったい、いくら懸かるだろうか。とうぜん宇宙飛行にはエントリーするだろうし。。こうなったらいくらお金があっても足りない。。
清貧を旨とし、お金は食えるだけあれば良い。。という美学は好ましいが、それは現状を前提として、あるいは贅沢の限りを尽くし、飽き飽きしてのことだろう。。
そして最後に、もし私に無尽蔵のお金があったとして、F14を見つけ、部品を探し、免許を取って操縦を習い、谷川岳の一ノ倉を背面で駆け上がる技量を身に着けるだけの時間は、残念ながら私には残されていない。。時間だけはお金がいくらあっても買うことが出来ないことで貧乏人のせめてもの溜飲が下がる。
そして時間という、この世で最も大切なものに、極めて厳格な公平があることは救いである。
厚木でのF14トムキャット。これがラストフライトになった
執筆者: kazama
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