JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
母のふるさと、一宮町千米寺の集落は京戸川扇状地の釈迦堂遺跡のすぐ下にある。
京戸川扇状地は教科書の地図に載っているほどの顕著なものであり、その源流をなす京戸山の絶え間ない土砂の押し出しにより形成されたものだ。
釈迦堂遺跡は日本の縄文遺跡の一割が出土したと言われ、4500年に亘る質実なる生活が営まれたところ。その後の弥生時代にも60を超すと言われた千米寺古墳群が今も畑の中に無造作にある。
そのころの甲府盆地(という命名は未だなかった)の様相はどうだったか。。灯り一つない星空の下、南アルプスはどう見えていたのだろうか。。
ここに暮らす満足感はその縄文の時間と今が連綿と繋がっている実感にある。
子供のころ、母の兄の叔父さんがよく「郷土の山」のことを話題にしているのを聞いたが字もそのように解釈していた。
京戸山はその名前にも雅があり、また山容も堂々としていて峡東地区の雄という趣にも関わらず山梨百名山から外れ、隣の達沢山が選ばれているのはおかしなことだ。
とは言っても人が決めたことだから大した意味があるわけでもないし、山の価値は変わらない。
京戸山に登るには一般的に達沢山から尾根伝いに行くが京戸山の方がこの山域の盟主のような位置にある。もう一つには北に尾根が伸びていてこれを辿れば山頂西の尾根に接続する、この尾根を登るには京戸林道を延々歩かなければならずそれがネックになる。私はいつも秘密の方法でこの尾根を登る(何のことはない、バイクでゲートの横をすり抜けるだけだ)
11月のまだ紅葉のうちに登るつもりだったが、つい今になってしまった。登り口が不鮮明で半ば強引に尾根に登る。その後も踏みあとは殆どない、以前はもう少し踏まれていた気がする。登山ブームとはいえメジャーな山に集中するばかりでマイナーなルートは崩壊やら藪が濃くなり、さらに足が遠のいている現状がある。昔は遥かに篤志家が居たと思うが登山者が若かったのだろうか。。
これが京戸山北稜。家の窓から真正面に見えている
富士山の手前の尾根が京戸山主稜線。。誰もいない静寂境
独りで山へ向かうとき、なぜかバイクだと、行ってくるぞ、という心持ちになる
すっかり冬枯れの山。稜線は風で落ち葉がない
鳥も鳴かぬ カサコソと自分の足音だけの山
横たわる枯木は何年経ったら土に還るのか。。
この山に棲む京戸山の木霊 これに会いに来たような気になる
山の深い夜の 漆黒のしじまにも この表情で立ち尽くす
何故この表情になるのか この瞳孔が 何を見つめてきたか。。
何に苦悶し なにを求め 立ち尽くしてきたのだろう
自我はひとつなのか からみ合う複数なのか。。
のたうつような 目をそむけたくなる 生きるいとなみ
主稜線に出ると 冬木立に日差しが明るい
摺針峠を経て御坂山塊への尾根筋。。いつの日かテントでの縦走を。。
倒木に座り おにぎりを食べる 山を回想し 至福のひととき
さらに東へ 笹子峠方面へのゆるやかな尾根筋
なぜか思うのは西穂~奥穂間の鋭い岩稜
これ以上望むべくもない穏やかな また繊細な美しさのひととき。。
東進すると不明瞭な 以前迷った箇所で引き返し西に登り返す
冬の短い日は傾き 長い影を引く
辿ってきた山稜が すでに過去の色に染まる
残された僅かな日差しが 早く帰れとせきたてる 子どもの頃を思い出す
谷は藍色に沈みはじめ 今日の残光が梢にあたる
暮れかかる山を降りるとき それは日本昔ばなしのような感じ
それが日常というもの テント山行にはない原点がある
執筆者: kazama
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