JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
ボーコンの頭からの四尾根とマッチ箱のコル
未練はないが、ここを登ったリッジとして見上げたかった(笑)
( 単独の限界。。 )
登山バスのバイトを共にすることになった同じ年の人は眼光鋭い精悍な人だった。
むかし山を登ったというから当然北岳も?と聞いたらバットレスを登ったという。ただザイルに繋がって登らせてもらっただけだと、そのことへの気負いは全くない。
聞けば山岳館の故塩沢館長がトップでセカンドとして四尾根を登ったという。セカンドといえば上下のビレイが煩雑なことだろうに。。
それだけの登山をしながら、もう昔のこととして山に興味もないらしく、その境地が羨ましい。
「いいなあ、それだけやって羨ましい」 というと 「え、なんで登らなかったの?」という。私たち団塊の世代のころはマナスルや井上靖の「氷壁」の影響か、クライミング志向が強く、滝谷や谷川岳、当然バットレスも賑い大樺沢にコールが聞こえてきた。
しかし私はどこの山岳会にも入らず、単独行動が殆どだったから岩登り志向はなかった。どこかの山岳会へ所属していたらたぶん登っていたろうとは思う。
しかし生来の天邪鬼な私が会の行動に順応できるはずもない。専ら他人と接しないテントでの単独行動だった。
そのうち尾根歩きだけでは山の外面だけな気がして沢を歩き始めると、その山の内部というか内臓を感じた。暗いジメジメした岩肌は好きではなかったが、山とのより深い関係性の満足感があった。
その沢登りも単独ではリスクが高いから、そのぶん恐るおそるだった。
( クライムダウン )
私はクライムダウンが苦手で穂高の馬の背の下降など嫌だった。山は登ったら下らねばならない。クライミングの講習を受けても下降は専ら懸垂というのは片手落ちだと思った。一般登山者は懸垂などしない、もっとも危険なのが岩場の下降なのに、そこへの安全教育がないのはおかしい。
沢登りは尾根にでれば終了であるが、できれば下降もしたい、何度か試みたが三倍ぐらい時間がかかり、結局は懸垂になる。40mザイルを立木でダブルにするから20m足らずになってしまう。ハーネスは沢には似合わない気がして持参しない。丹沢の短いが未知の沢を登り、ほぼ限界の滝を登ったらその上に更に手の付けられない滝が現われた。諦めて肩がらみの懸垂をしたが要領が悪く首筋の皮がむけるのがわかる、しかし辞められない、その場は夢中で痛さも感じなかったが、降りるしかなかった。
私の登山の罪は、大した難度の山でなくても、その単独ゆえの危なっかしさだった。
尾根ならスケールは小さくても道のない地形の模索を好んだ。
私が遭難するとすれば行方不明だろう、そう思っていた。しかしここまで転落も予期せぬビバークもせずに済んだのは、小心ゆえの慎重さであったように思う。
( 登山のしめくくり )
そんな山のしめくくりとして、一昨年に四尾根を登ろうという気になった。
もちろん単独ではなく、知り合いのクライマーに頼んでザイルに繋がっていれば登れるだろう。沢の濡れた岩ばかり登っていたから、乾いた長いルートに憧れた。乾いた岩に驚異的なクライミングシューズのグリップは爽快だろう。Dガリーの崩壊で難度が増したというがトップで行くわけではない。
あとは体力だとトレーニングがてら11月のアサヨ峰と思ったら暴風雪になり、辛くも栗沢山でビバークとなった。長い夜を凌ぎ風の合間に撤収できた。
ほっとしての帰り、何でもない平地でしこたま転んだ。高々2cmぐらいの岩につまずいて。。
それは今までにないことだった。気の緩みと疲労で足が上がっていないのだ。
登山の事故の過半数が高齢者によるもので、そのことに内心批判的だったが、なんのことはない自分もそのひとりである。山の遭難といっても、交通事故の多発と同じ構造で、登山者の高齢化問題でもあるのだ。
( 行動時間 )
バットレスというと、短絡的に核心部のクライミングが浮かぶ、ザイルに繋がってのリッジの登攀は高度感はあっても何とかなる気がする。しかし問題はその行動時間である。おそらくは10時間を越えるだろう、取り付きまでの草付きやら、いやらしい落石地帯のトラバースなど、むしろリアルに浮かんでくる。。
それを想ったら諦めが肝心と思えてきたし、ほんの思い付きだったから未練もない。そう思ったらサバサバとした気分になった。
未練たらしく捨てないでいたハーネスやらザイルやら、使いもしないユマールまであった(笑)。それらを処分しても物置が幾らも空かないだろうが、もう難しい処にはいかない戒めにはなる。
思えば本来はメルヘン的な高原やら桃源郷のような空間が好きで山に惹かれたのだ。もう残り少ない時間を無理し、緊張を強いられるバットレスなどに行くことはない。
山という舞台の特性として、また人間の向上心の表れとして、より高みを、より難度を高めていく傾向がある。結果として難度の高いのがエライ、といった画一的価値観となる。見方によってはそれが山の落とし穴ともいえる。
登山趣味を振り返り、登ることのなかったバットレスを見上げてみて、しかし感傷的にはならない。
山岳会に入ることもなく、技術的に向上はなかったが、その代わりに得たものは単独故の侘しさを伴う静寂そのものの夜、現代社会が失った本当の夜の深淵に触れたことだ。その古代から変わらぬ時間を過ごすのが、いつしか登頂に変る目的となった。
また独りになってみて、そこから想う家族や仕事、社会の見え方は、あらたな日常というものの価値であり、この世の厚みが見えた気がする。
そして、その収支決算は存分に割に会うものだったと思っている。
( 勘七沢大滝にて 確保される安心感に浸る )
執筆者: kazama
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