JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
バイト先の観光案内所の窓から、いつも見えている山。
高い樹木がなくて、あそこで寝たらいいだろうなと思う。
というより、ああ、あそこで寝たんだ。。と眺める境地になりたい。
寝た場所というのは特別で、無縁の土地ではなくなり、言わば親戚のようになる。
以前のこと静岡に単身赴任になり、9階建ての北の窓から見知らぬ山並が見えた。著名な山もない地味な山域だが、何度も通ううちに、人跡まれな魅力的な山域と思うようになった。いわゆる南アルプス深南部の南端にあたり山小屋など皆無、そこを歩くには野営が前提になる。通うごとに一夜を過ごした頂や尾根が増えて行く。その懐かしい見え方は格別なもので心の糧になる。単身生活を終え、静岡を去る時、ここに来たときの無縁な山並みが、いつか離れがたき故郷と化していた。
山へ泊まる、ということは家と違い、大地に直接横たわることであり、そのことの心理的作用だろうか、立ち去るとき恩義のようなものを感ずる。恩のある土地が増えることは幸せなことだと思う。
いつしか山へ泊まることが登山の手段から、山で泊まるために登るようになった。趣味の世界でよくある手段と目的の逆転現象である。
「あそこへ泊まったんだ」という見え方は、何かを買ったとか、食事をしたのとは比較にならない濃密な関係、もっと言えば淫行関係である。山に囲まれた山梨に越してきてから、家からの山々をそんな想いで眺め暮らしたいと思う。
この日の最後の残照がおわり 山は暮れてゆく
暮れてゆく山に独りで居ることは 取り残されるような心持ち
このいじましい 布切れ一枚の中が 頼るすべて
僅かな青みも去り 黙然と やってくる夜の真髄
山に寝ることの目的は深い夜に浸ることでもある。
山には原始の夜がある。
霊魂や亡霊とか信じない私でも、そこには得体の知れない怖れがある。熊や猪などにかなり出会ったが冷静でいれば対処できると思っている。
それとは違う得体のしれない、実体のない恐怖とはなんだろう、俺は何を怖れているのか。たぶん生物としての遺伝子に組み込まれた防衛本能の顕れかと思う。
星のない 暗い夜
市街地の灯りが 遠いいとなみに思える
10時すぎに小海線の音が聞こえる その尊い響きが沁みる
テントの生地がうっすら明るい 外へ出たら月が出ていた
しかし今回はひとつの発見があった。今夏の酷暑の感覚に、いきなり訪れたマイナス2度の夜。。装備は薄着のうえに夏用のシュラフ一枚。。
これで長い零下の夜を過ごすのは辛すぎた。足の冷たさが耐えられず、お湯を沸かしコーヒーの空き缶にいれ湯たんぽにし、ザックの中に足を入れ暖をとる。上を向くと表面積が増え寒い。横向きになると下が体温で温まる。しかし上側の寒さが絶えられず逆向きになる。。それを限りなく繰り返した。座っているのは案外に脚が暖かくどうせ眠れないならそれもいい。結局上を向いて足を延ばし寝ることは、かなりの贅沢な睡眠の体制なことを思った。そんな永遠のような夜を経てふと気が付いたことは、あの得体のしれない怖さを忘れていたこと。なにかの物音を聞いたようなゾッとする想いが全くなかったことに気が付いた。
それで思ったことは、夜の怖さは未だ余裕の産物ではないか。。肉体の苦痛の上には、根拠のない夜の怖さなど介入する余地は亡くなるのだろう。
眠れぬままに午前三時 月が沈むのはなにか妖艶な想いがする
山並は 槍から北鎌尾根?独標があんなに立ってたか?
そんな深い夜を経て、ひそやかに訪れる夜明けの厳かさ。
「この世の最上のものは夜明けである」
山へ泊まる行為を経て、その想いに至る。
生地に届く朝の光 その温もりが何よりうれしい
同じ座標と思えない めくるめく光の別世界
今回の山の夜は結局一睡もできなかった。こんなことはかってなかった。これが翌日も長い行程とか難所を控えていたら深刻な事態だったろう。しかしここは下山が一時間半ほどの行程だから眠れなくても何とかなる、ただ寒さに耐えればいいだけだった。そんな中で10時過ぎに小海線の音が山頂まで届いてきた。こんな時間に?、幻聴かと思ったがそうではない。小淵沢発小諸行の最終列車の音が野辺山の辺りから聞こえてきたのだ。こんな時間の高原列車に乗客はいるのだろうか。黙々と乗務する運転手の背中。。つい銀河鉄道の夜のシーンを思った。あの音が心に沁みてくるのは何故だろう。普段なら単なる列車の音である。それがこの夜の山頂まで届いてくる聞こえ方。それは世間というものの音であり、この世のなりたちの響きである。その遠い響きは尊く、また愛おしく感じられた。 普段は何も感じない、また下らなくさえ感ずることもある、この世のことが違う見え方になる。いくら孤高を気どり、俗世間とか言っても、決してそこを離れることはできない。ならばその価値に気が付き、肯定的になれるなら、こんないいことはない。辛い山を通じ、またひもじく寒い独りの夜を経て、そのことに気が付くことこそ山から得る最大のことではないかと思う。
月が沈んだ山稜は北鎌ではなく宝剣だった(笑)
鋸の山稜 未だ鎖もなく ザイルを出した あの夏の日
大岩山から八丁尾根を烏帽子へ 三ツ頭から第二高点
かって松濤明も辿ったという この複雑な山稜
撤収完了 一夜の褥 この世の縁
私の背を横たえた この地への恩義
下山した夜に布団で寝る幸せに浸った。夕べあれだけ固くエビのように丸まった躰を伸び伸びと、わざと投げ出してみる。およそこれだけの幸せというものがあるだろうか。これに比べたら他のあらゆることはたかが知れている。
たかがフトンで寝るだけのことが(笑)
執筆者: kazama
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