JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
芦安発5時15分始発バス 9月末となれば朝が遅い
前回の杖立峠から広河原への杣道探索は確証を得られず、枯葉のなかに靴の踵を見たのみだった。古道は時の彼方に消えたのだろうか。五葉尾根からの杣道は野呂川へ流下する深沢の源頭を横切っていったとされている、であれば深沢を登っていけばその痕跡にたどり着くかもしれない、あわよくば二棟あったという小屋跡を発見できるかも知れない。との淡い希望をもって芦安からの始発バスに乗り、深沢橋で降りた。
早川の深い谷は 藍色に沈む
上るにつれ背後の荒川源流と農鳥岳が高くなる
靴を濡らす気になれず石を仮橋とする
なつかしき丹沢の 沢登りを想う
沢筋を右に左に、時には石を投げこんで飛び石伝いに対岸に渡ったり、上るにつれ沢登りの様相になるが、沢筋から離れすぎぬ様、コンパクトに上る。
深沢を山小屋の方が登路として利用されていると思ったが踏み跡はなく、少なくとも荷揚げに使える経路ではないと思う。
どうやって建造したのか 巨大な堰堤を左岸から乗っ超す
大崩頭山を越えた日が 深沢の谷に満ちてくる
見上げると夜半に上がった下弦の月がひそやかに
やがて傾斜が強まり崩壊地の源流じみて堰堤が連続するようになり、一つ越えるにも側壁をよじ登るしかない。沢登では あるまいし年寄りのやる事ではない。もはやこれにて、と見上げると色付き始めた辻山が遥かに高い。昔の杣道はあの辺りを横切っていったのだろうか。
ここを降りてきた 年寄りの冷や水?
あわよくばの小舎跡は幻のままに終わる。小屋といっても登山の為ではなく、奥地からの資材と、麓の芦安からの食糧やらの補給と交換の場であり、そこが親子やら夫婦の接点でもあったという。
ここを登れば杖立峠?。。古道があったとは想えない傾斜
深沢を降りる際に左岸より流入する支流を遡れば、もしや杖立峠に達するのではないか、あわよくば辿ってみたいと思ったが、合流点から見た傾斜に恐れをなし諦めた。若い時の樹木さえあればどこでも登行できる。。そんな感性は加齢とともに失せた。同時に山の斜度がより強く見えるのは道理である。
一昨年の19号台風のデブリが至る所に。。堰堤よ耐えてくれ
もう一つの長年の懸念は、新たにできた林道からの「深沢下降点」とは何処か?。。という疑問である。数年前に深沢のバス停から降りてみたが、夥しいシカの罠が設置されて充分に歩けなかった、傾斜も距離もあり「深沢バス停」はあくまで作業拠点の名残ではないか、或いは深沢そのものの沢筋を降りたのではないかとも推測していた。
( 昭和36年の登山資料に記載された地図によると、細い破線の杖立から広河原への杣道。夜叉神から鮎差へ降り荒川小屋から吊り尾根ルートに加え、未完の野呂川林道から深沢下降点と鷲住山の下降ルートまである。しかし現在残るのは鷲住山のみ。。ひとえに広河原の利便性による時代の流れとするのは寂しく想う)
ここか、と思う地点は絶望的な様相
埋もれていた標識
まさか。。登山者カード入れポスト?
夥しいのが一斗缶
大型車の20インチのタイヤ
時代の定番の一升瓶とクラシカルなヘッドライトボディ
CCISオイル。分離給油はS40年以降か。時代考証は口伝より物証(笑)
この鉄骨はトロッコ軌道のレール。起点は深沢だったか。。
深沢右岸にあるトロッコ隧道跡
時が閉じ込められたような 限りない静寂
ある程度の暮らしがあったのか。。草履
三か所ほどあった大きな窪み ゴミ焼却所なのか 炭焼き跡?
唯一あったリボン これが何を意味するか不明
辺りを探ってみて、往年の深沢下降点はやはりここなのだろうと思う。しかし踏み跡も痕跡もゴミの人跡もない。下るにつれ傾斜が増すのは南の谷の典型で樹間から対岸の吊尾根や鷲住山が高さを増してくる。もしや吊り橋の残骸でも残ってやしないかとも思うが、道のないこの傾斜を降りて戻ってくる気概も勇気もない。だいたい年寄りの単独でやることではない。古道の痕跡を発見したとしても、それが何になるのか答えがない。ただ思うのは今の北岳はあっけらかんとして、早月尾根とか黒戸尾根に相当するような重厚なルートがない。日本第二の高峰といいながら、その登山の歴史を語る古道が風化に任し消えてゆくのは惜しいことだ。「北に遠ざかりて真白き山あり」と詠われたこの山が、今でも奥深く重厚な山であって欲しい
現存する唯一の 野呂川への鷲住山下降ルート
執筆者: kazama
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