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by : DIGIHOUND L.L.C.

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Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN

2021年10月03日 11時20分 | カテゴリー: 登山

北岳古道(2) 深沢探訪

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芦安発5時15分始発バス 9月末となれば朝が遅い

 前回の杖立峠から広河原への杣道探索は確証を得られず、枯葉のなかに靴の踵を見たのみだった。古道は時の彼方に消えたのだろうか。五葉尾根からの杣道は野呂川へ流下する深沢の源頭を横切っていったとされている、であれば深沢を登っていけばその痕跡にたどり着くかもしれない、あわよくば二棟あったという小屋跡を発見できるかも知れない。との淡い希望をもって芦安からの始発バスに乗り、深沢橋で降りた。

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バスの中で夜が明ける

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早川の深い谷は 藍色に沈む

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 この深沢は野呂川林道建設にあたっての重要拠点、あるいは林業の基地だったようだ。
北岳登山の歴史のなかで「深沢下降点」という文字は若い時から脳裏に刻み込まれた。深沢橋の袂に時代は伺い知れないが山の神があり、もしや杖立峠から深沢を降りる地図にない経路がなかったろうか、という想いもあった。
右岸に伸びる道を登ると案外な道になって、要所が舗装された砂防堰堤建設の車道だった。とは言っても一昨年の19号台風によって夥しいデブリに埋まっていた。

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上るにつれ背後の荒川源流と農鳥岳が高くなる

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靴を濡らす気になれず石を仮橋とする

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 なつかしき丹沢の 沢登りを想う

 沢筋を右に左に、時には石を投げこんで飛び石伝いに対岸に渡ったり、上るにつれ沢登りの様相になるが、沢筋から離れすぎぬ様、コンパクトに上る。
深沢を山小屋の方が登路として利用されていると思ったが踏み跡はなく、少なくとも荷揚げに使える経路ではないと思う。

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ふり返ると五葉尾根が低く 流れはまだ枯れない

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どうやって建造したのか 巨大な堰堤を左岸から乗っ超す

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 大崩頭山を越えた日が 深沢の谷に満ちてくる

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見上げると夜半に上がった下弦の月がひそやかに

 やがて傾斜が強まり崩壊地の源流じみて堰堤が連続するようになり、一つ越えるにも側壁をよじ登るしかない。沢登では あるまいし年寄りのやる事ではない。もはやこれにて、と見上げると色付き始めた辻山が遥かに高い。昔の杣道はあの辺りを横切っていったのだろうか。

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 源流の崩壊に耐え、巨神兵たる堰堤群 人知れぬ国土保全の重み

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 ここを降りてきた 年寄りの冷や水?

 あわよくばの小舎跡は幻のままに終わる。小屋といっても登山の為ではなく、奥地からの資材と、麓の芦安からの食糧やらの補給と交換の場であり、そこが親子やら夫婦の接点でもあったという。

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 今年も深沢に 秋がやってくる

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 ここを登れば杖立峠?。。古道があったとは想えない傾斜

 深沢を降りる際に左岸より流入する支流を遡れば、もしや杖立峠に達するのではないか、あわよくば辿ってみたいと思ったが、合流点から見た傾斜に恐れをなし諦めた。若い時の樹木さえあればどこでも登行できる。。そんな感性は加齢とともに失せた。同時に山の斜度がより強く見えるのは道理である。

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 盟友ガーミンによる深沢の迷走ぶり 右が杖立からの軌跡

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 一昨年の19号台風のデブリが至る所に。。堰堤よ耐えてくれ

 もう一つの長年の懸念は、新たにできた林道からの「深沢下降点」とは何処か?。。という疑問である。数年前に深沢のバス停から降りてみたが、夥しいシカの罠が設置されて充分に歩けなかった、傾斜も距離もあり「深沢バス停」はあくまで作業拠点の名残ではないか、或いは深沢そのものの沢筋を降りたのではないかとも推測していた。

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( 昭和36年の登山資料に記載された地図によると、細い破線の杖立から広河原への杣道。夜叉神から鮎差へ降り荒川小屋から吊り尾根ルートに加え、未完の野呂川林道から深沢下降点と鷲住山の下降ルートまである。しかし現在残るのは鷲住山のみ。。ひとえに広河原の利便性による時代の流れとするのは寂しく想う)

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深沢橋からちょっと下流なだけで 深沢の名の通りの深さ

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ここか、と思う地点は絶望的な様相

古地図はあてにならないが、それによると沢筋ではなく、しかし現在のバス停でもない地点を下降したことになっていて、そこを覗くと、とても降りられる傾斜ではなかった。
やはりバス停の辺りを除いて傾斜の緩い所はないので、改めて降りてみた。

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 深山の中にあって ホッとする佇まいの深沢バス停

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埋もれていた標識

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まさか。。登山者カード入れポスト?

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夥しいのが一斗缶

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大型車の20インチのタイヤ

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時代の定番の一升瓶とクラシカルなヘッドライトボディ

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CCISオイル。分離給油はS40年以降か。時代考証は口伝より物証(笑)
この鉄骨はトロッコ軌道のレール。起点は深沢だったか。。

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深沢右岸にあるトロッコ隧道跡

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時が閉じ込められたような 限りない静寂

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 ある程度の暮らしがあったのか。。草履

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三か所ほどあった大きな窪み ゴミ焼却所なのか 炭焼き跡?

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唯一あったリボン これが何を意味するか不明

 登山道らしいものはないが辺り一面に山仕事の残置物がある、何より下降点らしいのがブナの横にあたかも登山者カード入れのようなポストがあることだ。時代考証としては未だ「登山者カード」という安全管理はなかった気がする。あるいは冬の北岳というハードな登山を別枠と考えたのだろうか。
私の記憶では「深沢下降点」のころ鷲住山から下降するルートはなかった気がする。
あったとしたら夜叉神から鷲住より遠い深沢下降点を選ぶに値する理由がない。
証言によれば深沢下降点から野呂川に降り立つと朽ちた吊り橋があったが利用できるものではなく徒渉したという。
深沢ルートが寂れ、鷲住山ルートになったのは野呂川発電所に設置された吊り橋の利便性があったのではないかと推測される。

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ガーミンの軌跡。下部につれて傾斜が増す南アの谷
進行方向左の緩い傾斜を降り右へトラバース?
野呂川の線は吊り橋の跡なのか。。また行ってみたい(笑)

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 辺りを探ってみて、往年の深沢下降点はやはりここなのだろうと思う。しかし踏み跡も痕跡もゴミの人跡もない。下るにつれ傾斜が増すのは南の谷の典型で樹間から対岸の吊尾根や鷲住山が高さを増してくる。もしや吊り橋の残骸でも残ってやしないかとも思うが、道のないこの傾斜を降りて戻ってくる気概も勇気もない。だいたい年寄りの単独でやることではない。古道の痕跡を発見したとしても、それが何になるのか答えがない。ただ思うのは今の北岳はあっけらかんとして、早月尾根とか黒戸尾根に相当するような重厚なルートがない。日本第二の高峰といいながら、その登山の歴史を語る古道が風化に任し消えてゆくのは惜しいことだ。「北に遠ざかりて真白き山あり」と詠われたこの山が、今でも奥深く重厚な山であって欲しい

(F)

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現存する唯一の 野呂川への鷲住山下降ルート 

執筆者: kazama

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