JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
(鮎差古道があったと伝えられる観音経トンネル上の急峻な尾根)
残り少ないバス運行期間に観音経トンネルの東口から緩く見えるカレイ沢を鮎差めざし降りてみようと思った。未知のところを降りるのは危険というが、むしろ強引に登って降りられなくなるのが難所の罠であって、未知でも降りられたなら登って引き返すことができる理屈をカレイ沢下降の支えとした。念のため芦安山岳館に文献を求めたら古地図があり、古道はカレイ沢の下降ではなく、夜叉神からそのまま尾根を降りていくようになっていた。
アザミ沢とカレイ沢を分ける尾根の見てくれは急峻だが、仮にも古道があった地形であれば何とかなるだろうと思った。
夜叉神峠西口と言えば遊歩道でもありそうなイメージがあるが踏み跡程度である。それが尾根上ならまだしも南山腹についている。
鮎差へ降りるとすればこの辺りかという程度で、踏み跡などあるはずもない斜面を下りてみる。その根拠は山を歩いてきた感性からくる「らしさ」でしかない。しかし「らしい」所は獣も好み、無数のケモノ道が交差し、人の踏み跡との峻別はできない。案の定緩かった傾斜が次第に増してきて、何度もここまでにしようと思うが、観音経トンネル西口に残っている森林軌道が回り込んでいる「筈」のレイルを探すまで降りたい。悪いことにガーミンのGPSを置いてきて、万が一にはピンポイントで位置情報が特定できるというスマホに入れた「Geographica」というアプリが誤操作か、オフラインでは動かない。道がないとはいえ好天の山でGPSがないぐらいで臆するとは感性の退化というしかない。と言ってもナビのように行方を示してくれるわけではなく、路外の山ではGPSが軌跡を引くだけの利用だが、「正確に戻れる」というのは決定的である。
人為的な痕跡が皆無な、ごみひとつない山稜に忽然と、鉄のアングルで組んだ、100㌔はあろうかと思う籠が現れた。背負える訳もない重量物が横たわるここは、心なしか平地がある。かって軌道跡なのだろうか。他にも半ば埋もれたワイヤーがあって、なにがしかの作業の場所と思われるここを到達点とし、この地に腰を下ろし彼方の時にひたる。。
ここからは樹間から吊り尾根を経て、遥か遠い北岳がみえる
帰路の軌跡はないが、獣の歩きやすさに従って経路を選んだら西口からの踏み跡に戻れた。
いつの時代のものか 芦安中生徒会とある。。
林道に降りて欲が出てカレイ沢を「試降」してみた。過去からの懸案で観音経トンネル西口にある軌道跡が尾根を回り込んでトンネル東口の直下に来ている筈である。思ったより急で更に鹿の罠があって勇気がいる山稜には、しかし軌道が見当たらない。中央構造線とはいえ崩壊がこうも早く進むのだろうか。。
僅かにある堰堤が軌跡のなれの果てかもしれない。。
カレイ沢へ降りてみる なにやら構造物。。
ここもやはり鹿の罠があって 迂闊には歩けない
下が見えない勾配に阻まれ 目指すレールは見つからない
かっての森林軌道の経路はこの断崖を通っていた
今も残るトンネル、 若いころはかなり先まで歩けたのだが。。
こうして夜叉神からの鮎差への古道はやはり片鱗さえも出会えなかった。記録によれば昔の人が足が速いとはいえ一時間で降りたとあり、また夜叉神を鮎差峠と俗称し、主に女衆が荷役を担って行き来したという古道が、跡形もなくなるのだろうか。。その探索は私のような老人が単独でするのは無理がある。
( 鮎差に、いにしえの人跡を求めて )
夜叉神からが無理なら、奈良田からの林道から早川右岸に降り、南無妙法蓮華経とある石碑でバスを止めて貰い、石碑の裏からカレイ沢の出会いを目指し細い尾根を降りてゆく。釣り人のロープが在る噂を当てにしたが無く、慎重を期した。
鮎差城の如き細い尾根は早川に向かっていったん高度を上げ、岬状の尖峰をなしている。もしや未踏峰で登ってみたかったが(ウエストンなら登ったろう)只でさえ年寄りの冷や水なのに有事には何を言われるか分からない。尾根の鞍部の30mほど下に平地があるが、急斜面のなかに降り口をどうにか探し河床の台地に降り立った。
この尾根から河床の台地に降りた
河床からは遥かな高みにバスが通う林道が見える
アザミ沢出会い・・
古地図にはここに 「アユサシノ小舎」が記されている
いまの大崖頭山は、なぜか大枯頭。。との表記
カレイ沢出会。架線が二本残っていた 製材所の原木運搬のため?
或いは夜叉神から早川右岸にある小舎等への吊り橋のあと。。
ここが鮎差なのか。。疎林の中の平地はどこか生活臭がある。
30mほど先が一面に青い、それは夥しい空き瓶だった、数百個はあるだろう。。
二基あった釜 苔に覆われたむこうに空瓶の残骸
なにかの槽
丼の破片。。ここで炊きたての飯。。労働のあとの憩い
焼却炉。。
忽然と、あっけなく現れた人跡に、しばし呆然と眺めた。
缶のない時代、水や燃料、オイルといった輸送手段に使われた一升瓶が山の中にはよくある。しかしここには500ccほどの容量の瓶ばかりである。大正時代に水力の製材所があり70~80人が関わったというが、この空瓶はその痕跡なのだろうか。鮎差は炭や木材の拠点であり、黎明期の登山の足掛かりにもなった。そのころには何軒かの小舎があったのだろう。
河床から台地を見る たしかに作業小舎には適地に想える
上空より(笑)鮎差城 樹木の平地が製材所跡と想像される
ペデの岩小屋。なぜかそう呼ぶことが多い 利用されたか不明
中央の青木正一さんは芦安の先輩の父親。青木先輩が小学生の頃、山の案内人だった父親に連れられ芦安から草鞋履きで夜叉神峠を越え、この鮎差で小舎に泊まったという。北岳から御池を経て鳳凰へ移り芦安まで、父と10日を越え歩き通した小四の子の健気さを想う。
ここには苔むした釜が二つあった。焼却炉がひとつ、トイレなのか何らかの槽。炭焼き釜状の穴。割れたどんぶりの破片。壺やなにかの破片。。ここにどれだけの暮らしと、その先の労働があったのだろう。荷を背負っての芦安への登降と距離を想った。夜叉神を越えての荷役のそれは、たしかに鮎差峠というにふさわしい気がする。
山岳館にあった山仕事の写真
かって広河原で北沢峠へのバスの仕事をされていた芦安の先輩が子供のころ、荷役に携わった19歳のお姉さんが、増水した野呂川の仮橋から流され亡くなった。その命日だったのか、線香と花を手向けにいく姿を見た。19才の娘さんにして荷役での労災とは。。なんという世情だったろうか。お姉さんも芦安から夜叉神を越え、鮎差へ向かい、物資を背負い芦安へ向かったのだろうか。。
芦安の先輩諸氏に想うことは、共に仕事をする中で見た確かさというか、手抜きのなさだった。厳しい山仕事からにじみ出る慣習だろうか。その中でみた19の姉への切なる想い。。今にしてあのとき、同行し、鎮魂の手向けをすればよかったと思う。
鮎差古道は、当初は北岳への古典的ルートとしての価値観だった。
しかし小舎跡を目にして思うのは、パイオニアとしての岳人が辿った径という事より、当時の世相の中で生活物資を背負い往来した労苦への想いの方が強い。私も農家の生まれであり、父が子供用の背負子を作ってくれ、父母の労苦に子供ながら役立てることの嬉しさを感じたものだった。
山岳館と芦安支所のご厚意で芦安の過去に浸れた
その重厚な、真摯な人のいとなみ、この世の厚み。。
暮れる早川 鮎差の沈黙に 私の老境に 同じ秋が深まる(F)
執筆者: kazama
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