JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
( 野呂川林道開削記念碑 )
五月末のある日、私は野呂川林道(南アルプススーパー林道)で写真を撮っていた。
三脚を立てた場所は、この林道のなかでも際立って険しく、観音峡と呼ばれる高度感のある所である。V字型に深く切れ込んだ谷の対岸に間の岳が三千メートル峰の貫禄で残雪豊かに聳えたっていた。
私はトンネルの出口で、4X5のカメラを構えていた。大判のカメラは1カットが手間がかかる。私はカブリ(黒い布のこと)の中で逆さまに映るピントグラスを覗いていた。ふと耳元でささやく様な声がする。誰か話し掛けたのかとカブリから出ると人影はない。左のトンネルから風が吹いてくる、声はその中から断続的に聞こえて来る。その調子は歌のようだ、風のいたずらか?と聞いて見てもやはり人の声に聞こえる。それは木曽節や炭坑節のような労働歌の様である。誰かがこの長いトンネルを歌いながら歩いてくるのだろうか、しかし声は近ずいて来る気配はなく、時には大勢がドッと笑ったり、かと思えば再び耳元で囁きかけるように聞こえたりするのだ。 私はゾッとして三脚ごとカメラを担ぎ、トンネルから離れた。
車を止めた所に石碑が建っていて、こんなことが書いてあった。絶壁に阻まれたこの場所は野呂川の最難関で工事は遅々として進まなかった。特にこのトンネル開削では犠牲者が続出し、不運としかいいようのない事故が続いた。次第に不吉な空気がこのトンネルを覆い始め、さすがの山男たちも近ずくのを恐れるようになった。 万策尽きた神頼みが時代を物語るのだが、祈祷士に占ってもらうと、観音経という経文を唱えながら作業をすべしという。 それから観音経を唱える様にしたら、犠牲者はピタリと出なくなった。それゆえこのトンネルは観音経トンネルという名になったという。
ついさっき、歌のように聞こえたのが観音経だというのだろうか。私は石碑と今の出来事の符号に唸ってしまった。
( 権現岳の夜 登山者の証言 )
それから数年後の五月のゴールデンウイーク、私は友人と八ヶ岳の縦走に出かけた。
その年はことのほか残雪が多く、更に前日の降雪が加わり、稜線は不安定な状況だった。滑落事故続出のため登山は自粛するようにとの通達が諏訪警察から出ていた。私達は念のためザイルで結びあって縦走に向かった。 そんな状況だったから二日目に権現岳の小屋に着くと我々の他には二人のパーテイだけだった。
その夜は小屋番のコタツに招かれ、彼の作った特製のハイマツの焼酎を飲みながら話に花が咲いた。
風のない夜で、冷え込んでくるにつれて小屋がミシミシと音を出す。背中だけがうすら寒い。そうなれば当然出てくるのは怖い話である。若い小屋番は職業柄としては珍しく怖がりで、私達が下りてしまった一人っきりの夜を、どうしようかと言っていた。 それまで聞き役に回っていた一人が、では私のとっておきの体験を披露しましょう、と切り出した。年期の入った物静かな山男の話しは、こうだった。
今年の三月、南アルプスの北岳を目指した。下山の時スリップし、三百メートル程滑落し、ハイマツに引っ掛かって止まり九死に一生を得た。全身打撲の身に帰路は無限に長かった。夏ならば賑わう広河原も、この季節は雪の中、覚悟を決めて長い野呂川林道を歩いた。長いトンネルに差し掛かる、その中は雪のまぶしさから一転した暗黒である。自分の足音だけが響く。すると耳元にささやきかけるように歌声が聞こえる、それは遠くなり近くなり、時には唸り声の様に、そしてすすり泣くように聞こえる。それはトンネルの闇に潜む亡霊が、九死に一生を得て帰る登山者を引き戻そうとする怨念の声なのか。
彼は足を引きずるのも忘れ、耳にまとわり付く声を振りはらうように夢中で走り続けたというのだ___私は総毛立ちその話を聞いた。
そのトンネルとは言うまでもない、野呂川の幽谷を貫いた観音経トンネルである。
( 扇沢より北岳登攀計画 )
その年の八月、私は北岳に沢から登る計画を立てた。そう困難ではないルートとはいえ、日本第二の高峰にバリエーションルートで登ることは胸踊るプランだった。滝の登攀は岩登りの得意な友人と一緒なので安心だった。
北岳へのアプローチは野呂川林道を通る、つまり観音経トンネルを通る、実はそれが重要な目的なのだ。
五月の権現小屋の夜、私は居合わせた登山者の話を総毛立つ思いで聞いた。それ以来あのトンネルには何かあるのでは?と思う様になった。しかし、それを確認しにトンネルに向かうのは何か軽薄な行為に思える。あくまでも登山の経路で通るのだ、という屁理屈をつけたのがそのプランである。
出発が迫ってくると、どういう訳か微熱がでてきた。念のため風邪薬を飲み、夜の運転は彼に頼み、大事をとって助手席で眠ることにした。普段なら興奮して眠れないのだが、大月も、勝沼も夢うつつだった。
ふと目覚めると車は妙な光景の中を走っていた。濃淡の無い雲が一面に視界を覆い、灯かりは一つもなく、前方の一点だけがボワッと明るい。車が走っている感覚がなく、何か現実離れをした光景である。
「ここはどこなんだ?」 友人は黙ったままだった。前方の薄明かりはなんだろうか、その向こうは何処なのか。 やはりそこは南アルプスの地底、深夜の観音経トンネルだった。
私達は二時過ぎに広河原についた。私の気分はますます優れない、これでは登山は無理だろう。仮眠して明朝の体調で判断しようと横になった。
二時間ほどで明るくなった。爽やかな鳥の声とは裏腹に頭は重い、いよいよ決断の時だが中止には未練がある。中途半端な気持ちのまま、ザックのパッキングをやり直す。そうすると、いくらかシャキっとして来て、歩けば体調が戻りそうな気がした。決断は登攀する沢の出合いまで持ち越しである。
荷物は切り詰めたとはいえビバーク装備にザイルやヘルメットが加わり、嫌になるほど重い。その為の苦しさなのか体調が悪いのか分からない。
歩くこと二時間で出合いに着く、いよいよ最後の決断である。沢に取付くには野呂川を徒渉しなければならない。ゆうべ上流で夕立でもあったのか増水している、ザイルを出したほうがいいかも知れない。私は野呂川の流れを見ながら考えた。この川を渡ってしまったらもう、戻る気にはならないだろう。それは生きて再びこの世には戻らないことを意味している様に思われた。この三途の川を渡るのはまだ早い。
わたしは友人に、ズルズルとここまで来てしまったことを詫びた。彼は最初からこうなると思っていたらしく、「これで気がすんだろう」と言った。
中止となるとただの病人である、三十分とは続けて歩けない、やっとの思いで車までたどり着いた。
( 消えた一日 )
シートに横になると、野呂川の景色など、もうどうでもよかった。 しかし、あのトンネルを素通りする訳にはいかない。これは数年越しの謎を解く重大な確認である。
トンネルの中程でエンジンを止めた。その中はゆうべの様な神秘感はなく、ただ静まりかえっている、耳元で間抜けな調子の木曾節が聞こえた。暗闇の中で友人の目が笑っていた。
それからというもの私の容体は呪われたかのように悪化するばかりだった。
幽霊のような顔色をした私の突然の帰宅は少なからず家族を驚かせた。私は倒れこむように床に就き、泥の眠りに落ちていった。
翌日の10時ごろ目覚めてみると、抜けるような青空が恨めしかった。本当は今頃、気も晴れ晴れと三千mのハイマツ帯を歩いている時間である。 ふと新聞を見ると、おかしな事に気が付いた。日付けがどうも腑に落ちないのだ。昨日帰ってから寝込み、今朝起きたのだ、だがこの日付けから見ると一昨日に帰ってきた事になる。すると昨日という日はどこへ消えたのか。家族に聞いてみると、やはり私は一昨日帰って来たというのだ。そして昨日は昏睡状態という程でもなく、食事に起きたし、トイレにも行ったという。
それは無気味な空白だった。きのうの私は抜け殻だったのか。だとしたら私の魂はどこへ行っていたのだろう、再び野呂川の幽谷へ戻っていったのだろうか、、、
あの記憶の空白は高熱で脳ミソがイカれたのだろうか、、あれ以来、めっきり物忘れがヒドくなった気がする。
(終わり)
2014/07/02
執筆者: kazama
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