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2015年07月16日 18時24分 | カテゴリー: 登山

北岳クラシックルート   池山吊尾根を歩く

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   いつかは北岳の冬山を、と思いながら単独行スタイルではハードルが高く果たせないでいた。ならばせめて、その冬季ルートの吊尾根を歩いてみようと思い立った。

   鷲住山から吊尾根までの下降ルートは昨秋歩いたので、またボーコンの頭でのテント泊をしたいこともあり、あるき沢バス停から登った。   無雪期にこの長大な尾根を登る人はないだろうし、ルートの不明瞭さが心配だったが、概念を掴んでおけば大きな誤りはなさそうに思った。

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   尾根に乗るまでの急登は応えたが、昔からの深沢下降点を経て尾根の末端から登ってくる踏み痕は発見できなかった。

   尾根上の桃源郷のような池山御池は湿原状になっていて森の中には避難小屋がある。

   昨年の夏に北岳を目指したまま行方不明になった登山者がいて、もしかしてこの吊尾根に迷い込んだ、あるいは極めて人跡まれな、このルートを目指したのではないかという思いがあった。

二重になった重い扉を開ける時、ちょっとだけ緊張したが、訪れる人もなく淀んだような空気が静まり返っていた。   それからも岩穴状の所なども覗くようにして歩いた、正直怖いけれど、発見してやりたい同志意識のようなものもあった。

   小屋から上部は時折急登を交え、全体にはゆるやかな尾根の登りが延々と続く、まったくと言えるほどゴミがなく、人臭くない。踏跡プラスアルファ程度の道を延々と辿る果てが、北岳というメジャーな高峰であることが驚きである。

しかし数年のブランクのせいか地に足が付いていない、倒木をまたぐ時など、ついぺたりと座り込んでしまう、すぐにうつらうつらし、幻覚じみた白昼夢が現れる、こうなるのが私のバテの症状である。

マイナーなルートを単独のテント山行という私の登山スタイルも、そろそろ年貢の納め時なのかと思う、しかしその先の自分の登山スタイルが見えない。

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   自らの不甲斐なさと自虐的な思考の末、9時間の行動時間を費やして辿り付いたボーコンの頭の展望は、まさに「亡魂」という感じだった。目前にバットレス城壁の北岳が迫り、360度の展望。これまで経験した中で、これほどの展望台はない。

   ラジオでは猛暑とか熱帯夜であるとかいうなか。久々の2900mでのテント泊は涼しいどころか寒くて、ありったけを着こんだ、やはり暑いほうがまだいいなあと勝手なものである。

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   翌朝は快晴の中、八本歯の頭までの絶景の尾根をたどる、正面のバットレスがやけに切り立って見える。いつかは山仲間に頼んで四尾根の登攀ぐらいしたいものだと思っていたが、若い時よりずっと傾斜がきつく見える。ものごとは自分の能力に応じて相対的な見え方となるのだろう。近年崩壊したというDガリー上部の色が違ってみえた。

岩場の下降が苦手な私には気になっていた八本歯の下りは、まあ奥穂と西穂の稜線を想定していれば間違いないだろうと思っていた。一箇所だけフィックスロープが劣化してなくなっている5mほどの垂壁の下りがあった、わりと左右が切れていて私には予想外のセクションだったが慎重にクライムダウンした。   最後にちょっとだけ緊張して良いスパイスになったが、八本歯のコルに着き、長かった池山吊尾根が終わった。

   その後は大樺沢を下ろうと思ったが折角の好天なので北岳に登った。

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頂上は抜けるような青空と汚れのない純白な雲の、胸がキュンとなるような光景だった。   あまりに無垢なものを見ると切なくなるように、私が失ったものがそこにある。それは過ぎていった時でもある。   穂高や剣まで、そして雪かと見まごう降灰の御嶽山も見える、過去にそこを訪れた日々がよみがえってくる。

   そしてすぐ眼下には辿ってきた池山吊尾根が、昨夜寒さに震えたボーコンの頭のケルンが小さく見える。   たぶん吊尾根にはもう来ないだろう、へばったけれど、生涯これきりというつもりで噛みしめてきた。

つい昨日のことが、もうなつかしい過去のものとして遠ざかっていく、、、

山は、甘美な、美化された想い出を.いつまでも変わらぬ姿で保持していてくれる。

それは物質ではないから、スペースも管理もいらない心の財産である。

   ふるさとの山はありがたきかな、という唄は、そういう心情ではないだろうか。

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執筆者: kazama

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