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2016年06月21日 21時24分 | カテゴリー: 登山

無かった道標---夏草の雛鶴峠にて---

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神奈川から山梨への帰り路、数知れず超えた雛鶴峠の旧道を越えてみたくなった。

20年ほど前に新道の長いトンネルが出来てから走っていない旧道がどうなったのか見たかった。

ジープで入って見ると夏草がうっそうと茂り道幅は狭い。路面も荒れて来て無理そうなので引き返そうとすると先に木製の道標が見える。何と表示してあるのか、そこまで走り出した。

しかし近くになると何処にもない。さてなにを見間違えたのかと周りを見回すがそれらしきものはなかった。

つい先日も道のない山の山頂で幻の青い標識(笑)を見たばかりである。

なんでこうなるのか…共通するのは共に何かを探そうとする時である。そんな時に、有って欲しいものや有りそうなものを見てしまうらしい。

心眼というと洞察力という良い意味であるが、同時にそれは無きものまで洞察して作り上げてしまうのだ。

目は光学的に見る器官であるがそれを脳が認識して初めて実態を把握することになる。言い換えれば目ではなく脳で見ていることになる。世界は脳の中にある、とは心理学の記述にあったが、もっと言えば事実とは認識に過ぎない、とも言えるのではないか…

あらゆることが認識という関所を経ないと定着しないのだから危なっかしいのである。また、脳はでっち上げの天才という言葉もある。それがたぶん、老化により柔軟性がなくなり、さらに思い込みが強くなる。実際に青のブリキに白文字の標識も、また今回の乾いた木製の経年変化の具合までも、質感を伴ってありありと記憶されている。本当はありもしないモノなのに…

たぶんそれが時間を経て実際に見たことに変化してもいくのだろう。裁判などで目撃証言は有力な証拠になるが、本人も自覚しないうちに錯覚で冤罪を生んだ事例が驚くほどあるらしい

しかし短期間のうちでの2度のでっち上げはショックだった。山で疲労困憊の追い込まれた心理ならそうなるのも分かるが、何でもない里山である。

…これから老いへ向かって自分の感性がどうなるのだろう。それは余り語られてもいない未知なる領域であり、負け惜しみでもなく興味深い、唯一の内側から見ることができる生物が私である。

もっと飛躍すればそれを楽しめないだろうか…自分の衰えてゆくさまを---(笑) まあそれは詭弁かもしれないが、避けては通れない。どのみちそうなるのだから、そう言って向かっていくしかないのである。

…最後に付け足しのような話になるがネットで見ると雛鶴旧道トンネルが今や心霊スポットとなっていて不気味な写真があった。そういうのは信じないが怖いのは怖い。

峠の由来は1335年、悲恋の雛鶴姫伝説というのがあって、後醍醐天皇の第一子、暗殺された護良親王の御首を持って京都へ向かう途上、雛鶴姫がここで息絶えたというものだった。過去にジープでかなり通ったが何も違和感はなかったが、そういう哀切な歴史が込められている地名は人の情を感じて救われる。

執筆者: kazama

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