JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
( 山の訃報 )
平成17年の3月16日は神奈川の大和で介護施設の義母について医師と相談するのが中止になった。
せっかく天気が良いので前回の続きの無名な北方稜線を歩いた。
やせ尾根の先に予想外の深いギャップがあり、30センチほどの外傾したバンドにうっすら積雪…下は切れ落ちてそこを下降しなければならない…びびって退却しようと思ったがアイゼンをつけ慎重に下降した。
頂上で遅い昼食、帰りはギャップが登りになるのでいくらかやさしい。登り半分ぐらいで電話が鳴るが手が空かなくて出られない。何度もコールするのでもしやと思った。
登り切って電話する。。涙声で「 お母さん死んじゃった…」 これ以上どうしようもない、手の打ちようもない言葉があるだろうか。
。。雪模様になった、沈んだこの空の下に、もう母がいない… 明日は面会のつもりだったがもう会えない…
いつもなら熊除けにラジオを鳴らして歩く、しかし今はどんな言葉も音楽も耳に障る …人がいなくなるということ、その決して戻れない厳格な境界…結論の出ない思考を意味もなく繰り返す… 道のない冬枯れの山に、無心になろうとカサコソと落ち葉を踏む。。時折梢を渡る風のわびしさ…いずれは来たであろうこの知らせ…
黙然と歩く私の心に, 山の静寂が寄り添ってくれた下山だった。
( 暮らしのおわり )
薄暗くなったころ帰宅し、施設で対面したかったので向かおうとしたが、遺体を施設には安置できず、葬儀社に引取りを依頼したという。山に行ってなければ施設からの旅立ちに立ち会えたのにと後悔した。しかし葬儀社での対面も午後8時までで、山梨からではそれも間に合わない。結局は当日の対面はできなくなった。
16日の朝はいくらか朝食を食べたらしく、急変したのだろうか…
痛いとか苦しいとか誰にも訴えず一人で逝った母…老衰とはいえこのように静かな死があるのだろうか… それ自体は自分もこうありたいと思う程だが、しかし最後の数刻に肉親を求めることはなかったかと、それが心残りである。
翌日は横浜の葬儀社での対面… 穏やかな顔だった。。。顔に手をやる…その氷のような冷たさに義母の死を実感した。
翌18日は二年の暮らしのホーム明け渡し。何度そこに通ったろうか…ドアを開ければいつものように母がいる気がした。
テレビやら洋服やら靴やら…老人一人の荷物など知れているから、あっという間に閑散としてくる。お気に入りだった洋服を、もう着ることはないのだと想いを噛みしめる。
ここでの二年間の暮らし、母がこの世に生きた痕跡が容赦なく消えていくことは、耐えられない寂しさがある。しかしそれに抵抗する術がない。
折しもレクレーションの時間になり入居者のカラオケの合唱が聞こえてくる。廊下では歩行訓練だろうか、看護師に励まされながら手摺りを伝わって歩いている。
これまではそれを老いの凋落の光景として見ていた。しかし母は亡くなって、ここから出ていったいま、昨日の額の冷たさから世界が変わったことを実感した。そのことから見るとこの暮らしの、何と生き生きした光景だろうか。。ここの人たちにはまだ明日もあさっても、そして来年もこういう日常がある。。あの暗く冷たい霊安室に行ってしまった母に比べて、何と瑞々しく、生きる輝きが見えることだろうか。
この私の見方、この日の施設の日常の見え方は母の代理としての、死者の目線かも知れない。ものごとの見え方はそこに行って見ないと分からない。
スタッフによると、母が位牌をもった風呂敷をまとめて出ていこうとするのを留めたとか、また身の上話をきかされたとか、苦笑をしながら話してくれるのも愛おしいエピソードになってしまった。
荷物を積み終わるとスタッフが目を潤ませ、総出で見送ってくれた。
ここで暮らした母の二年間、その最後の日を病院ではなく、自分の部屋で迎えることができた。そのことへの感謝をスタッフに言った。「 そうしたかったんです 」彼は顔を上げず、そう言った。
何度ここに来たろうか。再び訪れることはない、すでに懐かしく、愛おしいこの施設を後にした。
積み込まれた母の身の回りの品々。。あたかも引っ越しで次の生活があるように錯覚することが哀しかった。
通夜と告別式は母の生地である横浜で行った。これまでのように親戚のだれかで母もここに参列するような錯覚があり、これが当の本人の葬儀であることが違和感とともに感慨深かった。
4階の斎場の窓から見える夕刻の街並み、起伏のある密集した住宅街は濃密な生活感を醸し出し、灯ともしごろのぬくもりがある。 そこで営まれる何気ない日常、そのことの価値が身に沁みてくる。 この見え方は旅人のものである。老人ホームのあの生活感の、新たな見え方とともに、失ってみないと見えてこない、日常というものの、本当の価値である。この私の見方は旅立とうとする母のものであり、死は究極の、最後の旅なのだと思わせるものだった。
母の遺骨は私たちと暮らした、景色のいい山梨にとも思ったが、順当には長男のところが筋である。葬儀の3月23日が暮れるころ、一年ほど暮らした町田の息子の部屋に落ち着いた。ローソクのほの明るさに包まれて、いかにもホッとした様子であり、居心地が良さそうに見えた。 納骨までの最後のあいだ、息子と共にいるのはさぞ本望なのだろう。山梨に連れていかなくてよかった、やはりここが本来の居場所なんだと思えるたたずまいだった。
振り返れば母とは25年近く同居したことになり、私にとって実の親より長くなった。その間には単身赴任がかなりあり、共稼ぎの我が家の留守宅を守ってもらった。それでも当人は居候させてもらってるという意識もあり、私にはかなり気を遣っている様子が見て取れた。
気性は強いほうで頭の良い人だった。時代が違っても世相を読み、話の呑みこみは早かった。それだけに弁が立ち、啖呵を切るところがあった。晩年は認知も加わり生来の温泉嫌いが嵩じて風呂に入らない、施設からも困り果てて身内からの説得をたのまれた。それでもまことしやかな弁舌は見事だった。
「 老人は新陳代謝が減るんだから入る必要はない 」 それでも衛生面を説くと
「 垢で死んだ人など聞いたことない 」 とくる。頼むから入ってくれと泣き落としに入ると
「 もうすぐ死ぬんだから最後ぐらい好きにさせてくれ 」 という啖呵を切られて終わる。
こんな風になにごとも筋が通るのが始末悪かった。
しかし最晩年はそれもなくなり、衰えてゆく現状を嘆くようになった。両親のときもそうだったが、それを慰める言葉がない。諦めるなとか希望を持てとか、若い人への言葉は沢山あっても、老人の心を元気ずけ、また穏やかにさせるような言葉はない。あっても「老人力」みたいな、ちょっとまやかしみたいなものである。
下り坂なのだから楽しいわけもなく無理もないのだが、積み上げてきた歴史や経験が産んだ、老いの哲学のようなものが見当たらないのは人間社会の弱点ではないだろうか。
逆にアンチエイジングとか老いを先延ばしするような、所詮最後は敗北するのを目隠しするような風潮がある。
神奈川から山梨へ母と共に三人で転居したとき、私達なりに終末までの介護を覚悟した、しかし母は老いの嘆きを居候の身分故とも重ねたのだろうか、何度も風呂敷に位牌を包んで家出した。田舎だからタクシーが来ないだとか、付いていくと
「 転ぶのを見て笑いたいのか 」と言葉の威勢がいいのは頼もしさでもあったが(笑)
それを介護施設でもやっていたのかと思うと、なだめてくれた施設の方にも頭がさがる。
日に10回ぐらいもかかってきた電話も無くなってみれば寂しいものである。 それでいて終末期に痛いとか苦しいとか何も言わず、まるで苦痛のないような最期はまったく見事というしかない。 私も母のような最後でありたいと思う。
長男宅に落ち着いた遺骨の様子を関西の息子にメールした。
「 それがいい、骨になってからも居候なんてごめんだよ、、と言うだろしな 」 と息子は言った。たしかにあの気性ならそうだったろう。
親の世代の最後のひとりだった母がいなくなり、ひたすら私達のしあわせを願ってくれる存在はいなくなった。同時に私達の子という立場もなくなり、いまさらながら大人になるとはこういうことかとも思う
山梨に帰ると北の空に、あの日訃報を聞いた滑沢山が見えた。
あの日の朝はまだこの世にいた母、予定通り神奈川に行っていれば会えたかもしれない。。。
あの山に行けばなにか母の気配に触れられるような気になる。
たぶんこれからもずっとそう思うことだろう。
家から真北の正面の美しい山容の山に、母の気配がしみついてよかったと思う。
山はそんな想いを、いつも変わらぬ姿で受けとめてくれる。
執筆者: kazama
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