JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
( 福井県 能郷白山にて )
近所の山から降りるとき右の踵に痛みを感じ、びっこを引きながら帰宅した。
靴を脱いでみると妙に出っ張ってるきがする。最近しげしげみたことはないから、こんなもんかとも思ったが左より出っ張りは大きい。
痛みは治まったが、もしや骨折でもしたのかと思い、整形外科に行ってみた。
レントゲンを見た医師が薄笑いを浮かべ、骨折ではなく、変形で心配ないが、かなりな先天性凹足だという。
こういう足では長距離とか重荷は関節や表皮に負担がかかり、起因する障害が多いらしい。
登山が趣味で重荷でいつも山歩きをしていたというと、驚いて「よくもまあこの足でねえ」とあきれ顔をした。
整形外科ではよく先天性という言葉で、つまり治らないことを告げられる。40代も終わるころ膝の痛みに襲われ整形を受診したら
「25キロも背負って歩けば膝だって消耗する、治るなんて思わないで大事に使うことですよ」と言われ、山は終わったと思った。 整形に受診して思うのは、こういうつき放す姿勢である。それは事実であり、ある面痛快でもあるが、その後の体とのつき合い方が難しい。
「負担をかけないように、しかし筋力はつけないといけない」とかいうのは実践しようがないように思う。
( 南アルプス兎岳付近 )
しかし「長距離歩行に適さない先天的凹足」という私の足の実態を若い時に告げられなくてよかった。
もしこれを知っていたら登山などという気にはならなかったろう。
山はいつも苦しい。低い山でも高い山でもそれは同じである。まして単独のテント泊がほとんどのスタイルだったからいつも重荷だった。そしてその訓練という意味で、例え日帰りでもなるべく重い荷を背負うようにした。
バリエーションルートの前などペットボトルで30kgぐらいにして超負荷の訓練をする。終わってみればその訓練がいちばん辛かったということになる。本番が拍子抜けしたなんてことは善しとすればいい。
登山は娯楽であるが、苦しい時それを耐える精神構造は、これも訓練だと思うようにしてきた。 そんな修行じみた山登りを、もし私の足のハンデを知っていたら、同じことをしたとは思えない。
苦しい時には道具のせいにしたり天候のせいにしたり、どこか責任転嫁をしたくなる。だから万全の道具を持ち、あとは自分の根性であり精神力だというシンプルな境地に追い込まないと頑張れない。 苦しい時に、登山を支える足にハンデがあると知っていたら,すべてはそこに起因すると思ったろう。まさに「知らぬが仏」であり、凹足という言葉を知らなかったことは、私にとって幸運だったといえる。
どうりで登山靴に限らず、靴がどれもこれも合わないというか、とくに国産のものがダメだった。それは靴のせいではなく、異常な甲高の足のせいだったのだ。 私は土踏まずが非常に凹み甲高の足をひそかに気に入り、美しくさえおもった(笑)。そしてそれは長距離に適するものだとおもっていたのだから、知らないことのメリットは多大なものだった。そしてもうひとつ、知らなければそれで済んでしまうという実感である。
他人の足がどのくらい痛むのかとか、足の裏に豆やタコがでやすいのか比較できないのだから、山登りとはこんなもんだ、で済んでしまうのである。
このことは拡大解釈すればいろんなことにも当てはまる。子供が寒いのに平気でいたり、すりむいて血をみたりしても平気でいたりするのは、冬は寒いものだとか、血が出たら痛いとか大事だとか、先入観念がまだないから平気でいられるのではないか。
子どもが素直で純真なのは、そういう先入観がないからであって、教育を受けるにしたがって失うものである。
善悪はもちろん教える必要はあるが、幸不幸は教えることではないように思う。低学歴が高学歴より不幸せとか,不幸せの象徴である貧困層を年収で線引きしたり、もちろん社会の取り組むべき課題として教える必要はあるが、それが不幸だとか教える必要はなく、またそうは限らない場合だってある。本人が不幸だと思わないことを社会の水準から不幸であると教えてしまう要素も教育にはある。あくまで本人がどう感ずるかに任せればいいのだと思う。
ネット社会の見えすぎによる比較論で幸不幸を言うべきではなく、それは社会の分断につながりテロなどの思想にもなる。
凹足のことから飛躍してしまったが、私が今日まで、この言葉を知らなかったのは、むしろ幸せなことだったと思う。
( 静岡県 房子山付近 )
執筆者: kazama
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