JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
オフロード好きの私がエンジンに惚れて買った唯一のロードスポーツ、ヤマハTX-500。
ツインの180度クランクのパルスと官能的な高速域に魅了された。
ライバルのヒットした4気筒のCB550とはムキになってバトルした
TXの無類の操縦性と高速域のパワフルさは素晴らしかった。
当時マニアック(変態?)だったオイル引きのベルスタッフを着て出かける朝のシーン
ひと転び5歳老け‥
バイクでの転倒はそれぐらい心にダメージを喰らう。昨日の転倒は昔なら持ちこたえるケースだったが脆くもヘルメットまで接地(^^)した。幸いケガをしなかったものの奥地でのダメージは深刻な事態になる。昔からバイクの特権のようにゲート横を通過していたが登山の単独行動と共に,どうやって自粛していくか,代わりになる愉しみが見えないのが問題だ。
昨日思ったのは林道はビクついて慎重に走るより,ある程度アクセルを開け気味の方が怖くない昔のセオリーを再認識した。それと自粛とを,いったいどう両立するのだろうか(^^)
5/27 差山から妙見山のあと小鳥山登路の偵察
たぶん45年ぐらい前の 広瀬ダム工事の広場にて
TY250のプロトタイプ のちの市販車より低速トルクがあった
スタンディングでのウイリーは無難だが醍醐味に欠ける
オフ車で座ってやる方が美しい気がする
湯ノ沢峠から大蔵高丸へ登りハマイバ丸への高原を目指す
このところ峠の古道探しでバイクを利用する習慣がつき、雪の降った後に京戸山にむかった
(バイクの快感の最たるものがこの逆ハン。のちに車のドリフトにも凝ったが、バイクの快感には遠く及ばない)
私は子供のころから運動が苦手で、そのことが私の消極性の核になった気がする。
体育や球技が得意だったならヒーローになれ、もっと積極的な人間になれたのではないか。
甥の風間晋之助がダガールを走ったマシンに触れることができた。
ヤマハの本社がある磐田から運ばれ、晋之助自身もダガール以来の再会だそうだ。
私もヤマハを退職いらい数年を経て、慣れ親しんだ磐田からのマシンに身内のような感覚があった。
( 弟が私が卒業後にポンコツYDSをここまで仕上げた労作 )
バイク好きのバスドライバーが同僚の仕上げたGT380に跨がる…
おもむろにエンジンをかけ、猛烈なピックアップでアクセルを煽った。黒い集合管からけたたましい排気音…
彼は横浜の名門(笑)⚪️族グループのメンバーだったという。
今日は誘われて登った山が、たまたま高校生の時いらいのルートだった。
分岐点のコルに立つと、遠い日の、霧に濡れた夏草のなかに、一緒に登った友人の白いワイシャツと学帽姿が蘇ってくる。
夏草が、いまは笹原に変わっていて、長い時間の、栄枯盛衰がある。しかし遠くのかわらぬ山なみは、懐かしく、またありがたい。
あの日はスポーツカブで来たのだろう。このセローも、ふるさとの山なみをともに眺めている様に見える。バイクは寒さも暑さもむき出しなだけに、喜怒哀楽につきあってくれるような気がする。
昔からトラで好きだったのはトロフィーでもボンネビルでもなく、このカバードモデルだった。
正式にはなんと呼ぶのだろうか---。現役時代にたまに見かけたことがあったが、
お洒落で優雅なバイクだった。いまなんでも入手できるとしたら断然このバイクになる。
カタログみたいにビジネス、スーツで乗るのがお似合いなんだろうけど---
春めいてきた昨日、40年の歳月を共にしたバイクが家を出て行った。
いつかいつかと思いながら、手がつかず錆びていくのがずっと気になっていた。
最近はもうこのままではないかと思い始めたおり、顔見知りの買取業者が訪ねて来た。
話してる内に、渡りに船のような、いっそこの際さっぱりしてしまおうみたいな気分になった。
私にしては思い切ったもので4台のバイクを手放した。
買取の方は手放す側の心理も理解されていて、しっかり生き返らせると言っていたが、私の元で錆びさせるよりいいだろうと自分にも言い聞かせた。
40年間も持ち続けたものは他には思いつかない。トラックに積まれて我が家を出て行く頃は月夜になった。今生の別れという気分になり、タンクに触ったら、こみ上げてくるものがあった。
テールランプを見送って戻ると各々のバイクの居場所だった空間が月光を浴びて、ポッカリと空いたスペースが胸に迫った。