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2018年09月12日 16時41分 | カテゴリー: 単車

怠け者の毒吐

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(バイクの快感の最たるものがこの逆ハン。のちに車のドリフトにも凝ったが、バイクの快感には遠く及ばない)

 私は子供のころから運動が苦手で、そのことが私の消極性の核になった気がする。

体育や球技が得意だったならヒーローになれ、もっと積極的な人間になれたのではないか。

運動会は親の前でかけっこがビリになるのだから最悪の日で、仮病を演じても先生にはお見通しだった。

そのことから私は勝負の土俵に上がることを極力避け、勝ち負けに対する価値観を持たず、スポーツ全般に対する興味のなさと、ひややかな態度を通してきた。

母校の野球の応援に駆り出されても、内心早く終わらんかなぐらいで、友人から批判されもした。

「勝敗は時の運」というのはその態度を後押ししてくれる言葉だった。

じっさいにどんな完璧な技を発揮できても相手が強ければ負けてしまい、その逆もある。勝ち負けで計れるのは相対的なものであり、絶対的なものではない。

トーナメント制での勝者は一人に絞られ、ほかの全ては敗者となる。

息子が剣道を12年間やって数多くの試合を見たが、勝ってガッツポーズをした選手が次の試合で敗北の涙を流している、大多数が負けるのを見て、スポーツとは負けを学ぶ場ではないか、ひいては負けてもめげないことを学ぶ場ではないかと思った。

高校野球で負けた生徒全員が泣いている、美しいシーンだとは思う。しかしふとあの涙に強制力はないのか、泣かねばおかしい、悔しくないのはおかしいという強制力がないのかとも思う。私がああいう集団を解ってないのかもしれないが、中にはケロッとしている生徒がいてもいいのではないか,そういう資質をもった人でないと見えないものがあって、それが役割にもなるのではないか。

少なくとも一般社会では多様な見方ができる集団が望ましいだろう。

 このところのスポーツ界の出来事は、その濃厚な師弟関係であり人間関係の強制力への鬱憤が噴出したように思える。

当事者たる指導者が一様に強力なリーダーシップとカリスマ性を持つのが共通していて、そういう人達でなければ成しえない領域は確かにある。

努力と根性、頑張りが効いて組織のために尽くす、いわゆる体育会系の人間は社会の中核を担う人材として評価されてきた。

またそれを育てる色濃いノウハウをもつ指導者は世の宝物というべき存在だが、そのリーダーシップが行き過ぎると支配の領域になる。努力を尊ぶ人間は哀しいかなその、やり過ぎの境界線が解らない。

永年の師弟関係は足かせになり、指導者の言うことは神の言葉とでもいう関係になる。

 ヤクザの世界のような義理人情とか兄弟仁義のような濃厚な関係は私の最も敬遠したいもので、スポーツ界にそれが色濃く見て取れることが、得意でないことに加えて距離を置いてきた要因だった。

 その指導者たちが言う根性論と勝敗へのこだわり、負けた悔しさをバネにするという方法論に、私は反応しなかった。

そんな私でも、高校生になってからバイクに目覚め、マシンが好きなこともあって人並みに乗れるようになった。

躰を通じて行うことで初めて劣等感を持たずに済んだ対象だった。

ダートでの走りに魅了され、根を詰めて練習するようになり、逆ハンやジャンプに凝った。

やがてモトクロスに出るようになり、何度かの競技を通してちっとも楽しめないことに気が付いた。

順位に汲々とするあまり硬くなり転倒のリスクやタイムロスに繋がるカウンターが楽しめない。特にスタートが良くて上位にいるときに守りの意識がつよくなり、その傾向が強かった。むしろ下位から追い上げるとき、もう入賞など眼中にない時の方が楽しめた。

まあそれだけの実力だったとは言えるが、競争には向かないし意欲も湧かないことからレースは止めた。

 思えば勝利より敗北のほうが遥かに普遍的ではないか、トーナメント方式だけではなく資本主義の構造も究極の行く末は一人の巨大な勝者と99人の敗者になり、それに向かって富の集中による格差が広がっている

人生そのものだって死という絶対的な敗北(笑)を避けられず、それに向かって老化という敗北を受け容れていくしかない。悲観的なようだが敗北が不幸かというとそうではなく、生物の根源的な方程式でしかない。 乗り越えられないものだから、それをいかに受け容れるか最も大切なことではないか。

スポーツの、勝利への過分な価値観は一握りの人しか栄光を享受できず、その他大多数の人が幸福になれない図式である。

勝負への過度のこだわりはこの世を幸せに出来ない因子ではないか。勝敗はあってもいいがそれは向上するための手段であってほしい。そのことは経済にも似ていて、経済が最終目的ではなく、その先の夢を叶える手段であってほしいと思う。

 勝敗があるからこそ人は努力し、成長してきたことは確かに言える。戦争が国家の枠組みや科学の進化も生んだ。

しかしそれによって核の拡散を産み、莫大な防衛予算を背負うはめになったし、平和ゆえの過大な電力消費が災害時には制御不能の原発依存体質になってしまっている。

 本来は手段であったはずの経済が怪物化し支配され、人はその奴隷となり、飽くなき経済成長を求めるるようになった。

ケインズが言ったというが、経済学は本来が富の公平な配分により、多数の人々を幸せにするためのもの。。その理念によれば、理想を言えば経済学はなくてもいい社会がのぞましい。。 かくも理想と現実が離れてしまった現代をケインズはどう見るだろうか。

 私の幼い理想を言えば、成長なんて、どだいもう無理だろうし、それに十分すぎるほど機械文明は発展してきた。

さいきん空飛ぶ自動車の未来図式があったが、趣味ならいざ知らず、あんな交通機関がいるほどの未来が見えるのだろうか。

重量は地面に持たせて前進だけにエネルギーを使うのが合理的であって、わざわざ宙に浮かせる莫大なエネルギーこそ浪費ではないか。もはやそれが許される環境なのだろうか。

成長は善なりという人類の性によって、ああいう未来を目的もなく描き、それに向かって進んでしまうことがどういう結果を生むのか。。。

 私見としてはこれ以上の文明社会の成長はやめ、千年でも同じ暮らしをすればいいのだと思う。

慣れ親しんだ生活様式や、馴染んだ仕事に誰しもが習熟し、余裕と心の安定を得られるだろう。成長へのエネルギーは貧富の格差のない公平な社会を目指すところに知恵を振り向けるべきだ。それはきっと平和な世界をもたらすのではないか。

革新を目指さないとなれば、既存の物事の深みや完成度を求める方向性が自ずと見えてくる。江戸時代の職人技や庶民文化、明るいうちに仕事を終える庶民生活は260年に亘る停滞が生んだと聞く。

 私の志向は先の事より、自分というものや今が、どうやって形成されたのかに興味がある。俺はなぜこの絵をいいと思うのか、

この音楽がなぜ懐かしさを感じさせるのか。空の青さになぜ胸がきゅんとなるのか。。既視感や見た夢のルーツはなんだろうとか。。それらのことには辿ってきた進化の過程で、その理由があった筈であり、きっと生き延びるうえで都合がよかったはずである。進化が都合の悪い方向に進むはずがない。

 ここ数十年、。成長への意識、その変革に追われ、因果関係への追及がなおざりのままで進んできたのではないか。なぜこうなったか、を知ることは、これからどうなるか、が朧気ながらも推測できる。その先には、進むべき方向性がみえる筈である

もはや経済の奴隷になったように、さらに機械の奴隷にもになりつつある。

経済も機械も、元はと言えば人間がつくったもので、その奴隷になるのは本来的におかしい。

私は外部のことより内なるものに興味がある。そのぶん他人や外のことに興味がない変人といえ、TVのCMなど印象がまったくない。

 そんな人間が文明を語ることも本来おかしいし、子供や将来のある若者には論外に毒だと思うが、また一方で先のない年寄りの特権だともおもう(笑)

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(バイクのもう一つの魅力、ウイリー。レースには不要なテクニックだが、いいようのない快感がある。テキストもない世界の独学は修行的な行為。無心の境地の浮遊感は宗教的だった。近所の農道で、退職した制服でのショットは同僚のヒンシュクを買った 我ながら修練を積んだウイリーを、ついぞこれ以外に他人に見せることはしなかった、得点も勝敗もない、真の自己満足のみ)
 

執筆者: kazama

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