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2013年12月26日 12時05分 | カテゴリー: 単車

ルーツ...工場レーサーの時代

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      このバイクに乗っているのはまだ高校生の弟、なけなしの小遣いをはたいたのか、飼っていた伝書鳩を売ったのか、経緯は忘れたが、今にしてみればよく入手できたものだと思う。

   このバイクはヤマグチSPBというスポーツバイクのパイプフレームに、ヤマハMF1という50ccのスクーターのエンジンを搭載した自作のマシンだった。当時のバイクはプレス鋼板を溶接したバックボーンフレームがメインであり、みんな軽量なパイプフレームに憧れをもっていた。このバイクはSPBのブルーメタリックの華奢なフレームに、よく回る三速ミッションのエンジンが良い組み合わせで、改造車とは思えないまとまりの良さだった。当時はまだ市販レーサーなどは存在せず、ましてオフ車というカテゴリーもなかったから個人で改造するしかなかった。レース場にいくとそんな改造バイクだらけで、それを見るのも楽しみな時代だった。そのなかでも最高峰はメーカーが持ち込む工場レーサー(もはや死語になりつつあるが、そう呼んでいた)で、そこからアイデアを盗むことがアマチュアの切実な関心事だった。

   バイク屋の息子のレース仲間が125ccのヤマハYA6というビジネスバイク改造車でレースをやっていて、小柄だが走りのセンスはなかなか良かった。そんな彼がYA6の工場マシンのパイプフレームをつぶさに見て、苦心してフレームを自作した。ゴールドに塗装して見てくれも良かった。

デビュー戦はFISCOのバンク外の長いマウンテンコースである。125ccクラスが始まり、公式練習に飛び出した彼が、一周回って戻ってきて、素晴らしく乗り易いと興奮していた。実際みていても次々に他車を抜いてかなり乗れていた。山を降りてきて、ストレートで今までにないスピードだと思ったらいきなり激しいシミーが発生し、とても抑えが効かず、かなりのスピードのまま大転倒になった。駆け寄ると顔に黒い火山灰をつけ、しかめっ面だが大怪我はなくホッとした、しかしマシンは溶接箇所が剥がれ、パイプは曲がって自走どころではなくなった。溶接が先に離れてシミーに至ったのか,転倒によってそうなったのか分からないが、長い時間をかけた労作だっただけに、意気消沈した彼を慰める言葉もなかった。

   写真のYA6はヤマハの工場マシンである。友人はこれに憧れ、見よう見まねで苦心して作ったのだ。このマシンには当時のカリスマ、ゼッケン4の鈴木忠男氏が乗っている。その神がかりな才能に満ちたライディングには私も魅了された。

この2枚の写真はたぶん同時代のものだと思う。まだ子供じみた山梨の高校生の弟と、すでにヤマハのエースライダーだった鈴木忠男氏が、やがて出会い、いまは旧知の友人という間柄である。そのことは彼のファンだった私にも嬉しいことだ。ここに至る40有余年という時間を遡れば、あの薄いブルーの小さなバイクと鳩小屋のある光景が網膜に浮かんでくる。

執筆者: kazama

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