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2013年12月29日 21時12分 | カテゴリー: 総合

サンクトペテルブルグ...罪と罰の光景

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あと数ページでこの長い物語がおわる

自らの犯罪に精神を病んだラスコーりニコフは、もうすぐ破局を迎えるだろう。

でも私はぐずぐずして数ページを読み切らないでいる。

あまり小説の分野は読まない方だが、およそ半年をかけ、ここまで来た。その間ずっと古都ペテルブルグの情景が脳裏にあった。旧い港や運河、そこにかかる橋、狭くて汚い下宿のアパート。飲んだくれのいる酒場、18世紀のままの警察署、、頭の中で想像し、慣れ親しんだその街の光景とお別れになるからだ。

長い物語というのは、それを読んでいる間じゅう、今の時間軸とは別に、その物語の時間軸がある。この物語の場合のそれは19世紀の帝政ロシア時代のもので、本を開くと、その重く湿った空気が私の部屋を包んだ。

   650ページにおよぶ、小さな活字が改行のほとんどない2段組で、びっしり詰め込まれ、見ただけで辟易とする書物を読むことができたのは、ひとえに古都ペテルブルグの、その空気感だった。

私はあらすじを克明に追うほうではなく、その場その場のシーンを風景として想像し、楽しむほうだ。本を読むというより、活字で描かれた世界を   「見ている」のかもしれない。作家の好みの基準として、あらすじの巧みさよりも、個々のシーンの描写力のすぐれた人のものがいい。

この物語の中核となる光景の典型は貧しさと惨めさのように感ずる。実際それは、しつこく滑稽なほどで、なぜここまでと思うほどだ。

...「中背で半白の頭に大きなハゲのある男が、年じゅう酒びたりになっている。その顔はむくんで黄色というより、むしろ青みがかった色で、まぶたは腫れぼったく、その奥には裂け目のような、いくらか充血した、ちっぽけな目が光っていた。着ているものといえば、すっかりすり切れて黄色くなった毛皮のジャケッツがぶら下がっていた」...そんな男が「狭いうえに暗い片隅の、妙にべとつくテーブルの前に腰をおろしてビールを注文する」...と.こんな具合である。   住居の様子なども、壊れそうな椅子や、二三歩しか歩けない台所や、ひびが入っていまにも割れそうな食器とか、、そんな所ばかり描写する。多分それが19世紀のロシアの空気であり、心象風景だったのだろう。

   日本には「清貧」を美徳とする観念があって貧しさを受け入れる精神的土壌があった。ロシアにも清貧ではなく、「清」の代わりの字が思いつかないけれど、貧しさを受け入れるものがあったのではないだろうか。

清く貧しく、、さらに貧しく美しく...それが日本の美意識だろう。しかし往々にして貧しさは美しさより汚らしさと惨めさを伴いがちである。この本に描かれた貧しさのほうが、より現実的な気がする。...
「幸せとは苦痛とのコントラストであり、苦痛のないところには幸せもない」...   この登場人物のセリフは、ドストエフスキー自身の観念だろう。まさに、ドMの発想であるが、そうならざるを得なかった時代的背景があったのだろう、それは登山などの行為にも通ずるものがある、そう思って耐えるしか方法がないのだ。

   もう一つの読み続けられた理由が、この本自体のモノとしてのクラシカルな存在感ではなかったろうか。いまどきの出版物の多くが、文字は大きく、行間は広く、改行だらけでスカスカである。老眼に優しいのはいいがページ数を稼ぎたいがためではないかと思えるほどだ。そして紙を厚くし、本としてのボリュームを保ち、立派に見せようという感じがする。その点、この筑摩書店の本は申し分のない質感があり、手にする喜びが読み続けることを助けてくれた。
  なにごとも風景として見てしまう私は、本であっても風景の一部に足る体裁があって欲しい、そしてこの写真のように、モノを撮るにもついその背景に風景を入れたくなる、それは、たえずディティールを想像するという、私の本の読み方と一緒なのかもしれない。

ちなみに、この本はブックオフの不人気処分コーナーにあり、出費は105円だったことを白状しておきます。

執筆者: kazama

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