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2014年02月06日 19時56分 | カテゴリー: 総合

   ひとり旅...Mの構造

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      旅先の夕暮れどきはその土地の生活感がたまらない。

   そこが無縁の土地であるほど甘酸っぱい旅情に浸ることができる。

私の旅の目的は風景だけれど、それが寂しいほど良い風景ということになる。

   私の旅とは寂しがりにいくようなものだ。

寂しい風景の中に立つと、外気と体内の空気が一体になったような居心地の良さがある。

だから遊びのほとんどが一人であり、たまに友人と行動を共にする時は「お付き合い」のニュアンスが強い。自ら友人を誘うことはロープが必要な登山ぐらいしかない。

   また宿泊先を予約することは束縛につながるので滅多になく、ほとんどが車中泊とテントになる。

たいがいが、こんな夕刻になっても泊まり場所は決まっていないが、その状況が繊細な感覚を産む。動物として未知の場所で、夜のねぐらが決まっていないことは心細い状態である。

そんな心境で見る、見知らぬ街の、夕げの支度のころの生活感はたまらないぬくもりがある。なにげない日常というものの価値を痛切に再認識するときである。

   その見え方としては犬の散歩とか、新聞を読んでいるステテコのおじさんとか、日頃はどうということのない、むしろ退屈に見えるようなシーンのほうが心に響いてくる。

考えて見れば退屈ということは平和の象徴のようなものだ。

   よその土地でねぐらが決まっていない程度の心細さでも、その平穏さが、すでに光輝いてみえることに驚く。

それがもっと極端な、戦争で居住地を追われたようなときには、たまらない贅沢な時間に思えることだろう。

そんな旅の目的というか効果としては、新しい発見よりむしろ、結果として日常というものの見直しにある。

新しいものを手に入れるのではなく、今もっている物の価値に気ずくことにあり、それは幸福感につながる。
そのためにはいっとき、意図的に貧しく、ひもじい時をすごすほうがいい。

それは同時に経済的効果という、願ってもない副産物を産むことになる。

       いや正直に言えば、それが目的なのだけれど。

執筆者: kazama

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