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2014年02月21日 20時30分 | カテゴリー: 登山

親切のかたち

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   20才そこそこの頃、冬の甲武信岳を目指した。

予定では4時ごろ冬季開放小屋に到着の予定だった。

しかし思いのほか雪が深く、ラッセルに次ぐラッセル、行程の七割ほどで日没になった。

おまけにルート不明になり、吹き溜まりでは肩以上の雪にもがき遭難寸前、9時ごろようやく小屋に着いた。   疲労の極みだが寒さで眠れないまま翌日は吹雪模様の中を下山、くたくたになり風の避けられる岩影に逃げ込んだ。

そこには先行の登山者がいてコーヒーを沸かして飲んでいた。

その手際のよさに年季を感じていると、その男が「飲むか?」と自分のコーヒーカップを差し出してきた。驚いたが吹雪のなかでその配慮はなにより身体に沁みる暖かさを感じた。

普通なら自分の飲んだコーヒーなど差し出すことはしないだろう。しかし舞台は吹雪の中に風を避けた岩陰、この若造が暖かいものを欲しくないわけがない、そう思ったのだろう。

厳しいだけで何もいいことのなかった山行のなかで、心に灯る明かりのように、俺もあの男のようなさりげない親切ができる男になりたいと思いながら下山した。

   私はいまでもあの男の「飲むか?」という無骨な思いやりが忘れられない。これまで受けた数々の親切のなかでも抜群のシンプルなスマートさを感ずるものだった。

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   今回の豪雪でヤマザキパンの配送トラックが雪に閉じ込められ、積荷のパンを無償で配布したが、これも臨機応変なスマートさを感じた。

手渡してくれたドライバーは「賞味期限切れだから自己責任で」というアナウンスをし、あえて親切ではない、というニュアンスを加えた。実際には期限切れではなかったのだが、それは施しを受ける側としては粋な配慮に思えた。

   親切のかたちとして、一見親切ではないように装うのは、受ける側の心苦しさを和らげる。本当の親切とはこうありたいと思う。

これ見よがしの親切や、美談に仕立て上げることが多い風潮のなかで、動機のシンプルさと合理性。なにより食品が廃棄物にならず災害救援に役立ったという、まれにみる壮快な出来事だった。

   しかしネットの書き込みには、配布されたパンは添加物満載であるとか、放射能に汚染されてるとか、あきれる中傷があった。こういう人達は、いったい何を求めているのだろうか、たぶん厳格な食品管理を求めているのではないだろうことは想像がつく。

   何が親切なのかというのはその場の状況によって変わる。その判断力と柔軟性が機械にはない、そこが人間が係わることの意味ではないだろうか。

   厳格な管理をせよ、というならその部分はやがて機械に変わるだろう。それは雇用の喪失にもつながる。現に近代はそれを省力化と表現し、是の最たるものとして歩んできた結果である。

   機械のマニュアル的な判断に任せれば、このパンは処分されたろう。しかしそうしなかった人間がこの会社のどこかにいたわけだ。高度な管理社会のなかでの人間の役割はそうあってほしいものだ。

   今回の膨大な雪の質感は甲武信岳のラッセルと、岩陰で「飲むか?」と声をかけてきたあの男を思い出させた。顔はフードでよく見えなかったし名前もなにもわからない。でもどんな映画でも、あれ以上かっこいいシーンはみたことがない。それに憧れた私だったが、「さり気なく」と意識すると行為に気付かれないことが多い。

でもそれが気になるようでは、まだ修行が足りないのだろう。

執筆者: kazama

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